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あかがねの道お奨め観光地

神子内ルート(かたぎり橋)


足尾通り見取絵図(1809)に描かれている岨道。

これより遡ること約20年(1790)の高山彦九郎の北行日記では

「19日、晴れる、川を左に見ていく、川へ下る所有り、棧道ありて人の頭上を過るいと奇なり。猶ヲ棧道経る岩山嶮峻なり、岨道の危き所へは木を横たへ藤にて結びぬ。川を目下に見て行く・・・」とあります。

この景色が当時のままほぼ残っている。道の脇には馬頭観音と思われる石碑も残っています。

 又、近くには地蔵になった巫女の伝承が残っている巫女地蔵と薬師如来を祀った地蔵堂もあります。

本山ルート(本山精錬所周辺)


  あかがね街道(本道)とは少し外れますが、松木川と表記された上流の三つの沢にはそれぞれの沢の名がついた集落があり。延暦年間、勝道上人が日光を開いたころから人が住んでいました。 

この村の生活が一変したのは明治17年(1884)この村の2キロ南で足尾銅山の製錬所(a09)が操業を開始しました。それからわずか18年、明治35年(1902)廃村に追い込まれました。製錬所から出た亜硫酸ガスが農産物を奪いさらには山の木も枯したのです。

足尾銅山の水力発電は日本で最初のものです、そのほか足尾銅山が明治期の日本の近代化をリードしたのは間違いない事実です。と同時に公害問題を起こしたのも事実、一番の犠牲は足尾の住民の犠牲の上に成り立っていました。ここ本山精錬所周辺はそんな現実が見られる場所です。

 

町中ルート(大黒橋、宝増時)


 足尾で外せない場所が大黒橋であり、宝増寺です。

え絵図では法蔵寺とあり、現在の場所に描かれていますが、ご住職の話しでは明治元年に渡良瀬村から引っ越してきたといいます。

 延暦七年(788)最澄のの創建と伝え日光輪王寺末。とあります。

 御本尊は木彫りの阿弥陀如来像ですが勝道上人作と伝わる、波之利大黒や藤原秀郷の軍旗もある天台宗の古刹です。


町中ルート(掛水倶楽部)


 

掛水倶楽部(a14)は明治32年(1899)貴紳客の接待と宿泊施設として設けられました。当時の「足尾銅山」の書では「洋風の大館、和風の高楼を並べ、応接間、食堂、寝室及び娯楽の各室を設け、屋外は広き庭園・・・後苑には珍草奇木あり、四時花を絶えず・・・川流にのぞみ一段低き所に幽佳の小池ありて藤棚之を掩う。風景の佳、実に足尾第一なり。」と述べられています。

 

娯楽室としてビリヤードが設けられ当時としてはハイカラの尖端を行くものでありました。

 

明治40年、鉱業所の事務所と幹部役宅を掛水に集約することになり、洋式木造二階建てで、一階は洋式で、暖房にマントルピース、照明はシャンデリアを用い、二階は和室で会議や宴会所を増築しました。この形式はイギリスの建築家ジョサイア・コンドルの一つのパターンであるそうです。内部には渋沢栄一翁の書もあり、内部の公開も行われています。見学には一定の条件がありますから事前にお調べ下さい。

 

町中ルート(通洞駅周辺)


  

通道駅周辺は江戸の頃は赤沢村と呼ばれていました。道の両側に民家が立ち並び右の民家の後には字新床屋」とあり、銅の吹立をする所でした。吹所、あるいは吹立床屋といい最盛期には五十枚軒)ほどありましたが寛政年間には吹床二枚に激減、この絵図の作成された頃はその衰徴の極みにあった時代だそうです。今の渋川は床谷川の書込みがあり、字江戸町板橋(a17-4)とある所から橋周辺は江戸町と呼ばれていました。「これより4丁ほど下流にて渡良瀬川出合とあります。1丁を約110mとすると450mほどになるので今の位置とそれほど違わない位置になります。

 

渋川は川水が柿渋色から生じたそうですが吹床が沿岸にあったので吹谷川となり上流の床屋に対して下流の江戸町に造られた床屋を新床屋と称したということです。

写真はあかがねの道はここから始まるを参照してください。

 

磐裂ルート(磐裂神社)


 足尾歴史館 はここをクリックしてください。

磐裂神社は庚申山講の登山の出発点で、切幹橋の所に有る大きな庚申山碑(a20)は昭和25年に移動するまでこの神社の第一鳥居脇にありました。

 

曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」に庚申山の化猫退治の話が出てきます。犬飼現八が庚申山の麓の茶屋から登って行って化け猫を退治しますがその茶屋があったのがこのあたりだそうです。

 

(北日記)には「右の方山奥に猿か浄土とて奇なる所あり山中に宿せざれば見る事ならず道甚だ難所なるよし、とおしも村妙見の社鐘もあり、森の中を過ぐ社は左にありぬ」ということから見ると今の街道よりずっと山側を通っていたのでしょう。すると「わ鉄」の軌道内の近辺だったのかもしれません。

 

 

 


唐風呂ルート(唐風呂・餅ヶ瀬)


 唐風呂とは「枯れた川の水温む地とも洞穴があった」ともいわれてます。ここには縄文の竪穴式住居跡があったといわれ、足尾地区では最も早く開けた集落です。嘉永六年の反別調べでは27戸147人と足尾でも有数の村落でした。因みにこの奥に餅ヶ瀬地区がありますが、唐風呂の上村といわれた時代があり、地元の方が云うにはお餅を売っていたいたからとのことでした