黒保根地区観光情報

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水窪ルート(関口文治郎作品)

 黒保根の上田沢地区はあかがねの道から

外れています。しかし関東の左甚五郎と云われ国宝の妻沼の聖天宮を手掛けた関口文治郎の工房があった所であるから外す訳にはいきません。

 花輪彫刻集団の開祖の高松邦教の門人の石原吟八の門人で二代常八と同門となります。文治郎の作品は秩父の三峰神社、桐生の天満宮、榛名神社など優れた作品を数多く残しています。

 医光院には彼の残した欄間飾りと共に墓もあります。

水沼ルート(名主宅)

 黒保根のあかがね街道は多くの謎が秘められていて、この謎を解くカギがこの名主宅です。 

 古くにあたって水沼から津久瀬にかけては渡良瀬の流域が常に移動する沼地状態で、断崖が川辺まで迫り、道を開くのが困難であったためと考えられていてました。後期の道といえる街道が開かれたのは、水沼村の分限者星野七郎右衛門が現れてからといわれてます。指導者と幕府とのかかわりがいがあり、急速に街道の整備が進んだと思われるからであるといわれてますが。実は星野七郎右衛門が吹所世話役についたのが文化十三年(1816)であるが、(絵図)にはハッキリと小黒川河口の橋と水沼の通りが描かれています。絵図が描かれたのは文化三年(1806)世話役に付く十年前です。ということは世話役に付く十年前には後期街道が出来ていたことになります。更に万年橋からほぼ中間の今の関守橋の所の薬師堂の地蔵菩薩座像(e01-1)は寛政三年(1791)そばの青面金剛(e01-3)は天明三年(1783)の記入があり、なんと三十三年前となります。とすると後期街道の開設はそれより前となりますが、実はそうとは限りません。水沼地区は黒保根の中心である事は間違いないと思いますが他地域に行く道はどれも山道でそれも多くはなく陸の孤島の様な地形だったと思われます。

先ほどの星野七郎右衛門は「中世的系譜は水沼村字関守に住んだ刀鍛冶」との伝承をもっているそうです。ここの関守が荻原の関守はどうかは分かりませんが刀鍛冶と云うからには五覧田城とも関係が深く、その頃から水窪ルートがあったとしても何の不思議もないことと思います。

また水沼から津久瀬地区には川沿いで行けますが、津久瀬からは前田原にでてそこから南雲沢を渡り地図e12地点に行かないと川口地区には行けません。そこで後記ルートを整備したものと思われまます。水沼地区は単に黒保根地区だけでなくあかがね街道沿いの多くの村に影響を与えていました。陸の孤島の様な場所では具合が悪いですよね。 

後期ルート(津久瀬稲荷神社)

 国道122号線は津久瀬地区で沼田に向かう県道62号線が坂の上へと別れている。

 かつて水沼から来た道は江戸川に阻まれ先には進めなかったようです、江戸川を遡ってま前田原地区に出てそこから城下り地区に向かってました。水沼と山間部の下田沢の各地区を結ぶこの地はそれなりにの地区としての役割がありました。山際にある津久瀬稲荷の本殿は小さいながらもその装飾は観る物があり当時の生活を垣間見ることができます。

 この地にあかがね街道が通ったの詳しく分かっていません。しかし絵図にははっきり描かれている所からすると18世紀の後半と見られます。

 当時は県道や国道はありませんから直接地区内に入って来ましたその踏み跡は今も残されています。村の中を通り水抜き橋と描かれた所を渡り少し上流に上がってから大きく右折して南雲沢方面に向かってます。

 これからすると今の江戸川橋より少し上流を渡ってから県道の場所に出て、道の駅の上の道が後期ルートとして開発されたのかも知れませんね。ただし、星野七郎右衛門が世話役に着く前の話しです。


前・後期ルート(城下り川)

 後記ルートと前期ルートは城下りトンネルの上の方で合流します。合流して降りた所が川口集落です。川口の集落はこれより奥には人家が無く行き止まり、だったそうです。

 沼田方面に行く街道は前期街道を気勝沢沿いに上りe12の橋を渡らずにそのまま真っ直ぐ行きました。

神梅方面には今はトンネル脇に出る道がありますが、これは新しく作った道です。

 絵図ではこの先城下(川口)地区に入り、城下川を渡りますが城下川は現在は川口川に名称をかえています。絵図の城下川土橋は渡良瀬より一丁半とあるので距離で165mほどの所に橋があったことになります。ここ川口地区には川に降りる道の痕跡(e25-2)が有りますから途中までは下れます。しかし途中でなくなり、村史では「馬橋」と呼ばれていた橋は有りません。馬橋を渡ると川口道まで登りますが、この川口道はもっと低い所に有り、ここに神亀石(e27)といわれる亀の形をした大きな石が有りました。この石は道が上がり埋まってしまうので現在は下田沢の方に移動したそうです。

 

 

 

本宿ルート(深沢城址)

 あかがね街道とは少し離れているが重要な場所が深沢城址です。

 深沢城祉は、別名神梅城・神梅の寄居とも呼ばれ、黒川谷(渡良瀬川の渓谷)に平安末頃から土着したという由来を持つ阿久沢氏の居城でした。城跡の状態も残されている数少ない城跡です。北側にある円正寺は阿久沢氏の菩提寺です。

 天正18年上杉・北条氏の滅亡と共に廃城となり阿久沢氏は帰農しました。

 天台宗円正寺は東方300mの地塔の越にあったが廃城ごここに移されました。

 その側に在ったのが諏訪神社で芭蕉の句碑が残されています。句碑には 「鴬や柳の後薮の前」はせを とあります。建碑は明治二十八年四月となっています。

 城の入り口の所にある石幢(庚申供養)は六地蔵尊を龕部に彫り、幢身には輪廻の痕跡があり、信仰上重要な意義をもつものと思われます。また造立者に松井備後守

夫婦年号も丁寧に記されていることから歴史遺物としても貴重なものです。

 

 

本宿ルート(深沢川に到る道)

  深沢城は東に城下り川、西に深沢川、南は渡良瀬と三方を川に守られ、北は急峻な山と守りに安く攻めるに難い城です。

 そんな地区にあるあかがね街道は他のルートが無く、トンネルが出来てからは道がはっきり違ったので当時の面影がそのまま残されている貴重な所です。