A あかがねの道はここから始まる

a 足尾地区 神子内ルート・本山ルート

神子内ルート a01 黒沢 ~ a12 大黒橋まで

 

  あかがねの道、それは細尾峠から始まってます。細尾峠は日足トンネルが開通し、今では簡単に日光にいけますが、日光からは足尾のどこを通っても深い山を越す大変な場所でした。

  (絵図)では日光起点で細尾村から細尾峠(古くは足尾峠ともいわれてた)越えですが、ここでは神子内村(a01)から紹介します。神子内(みこうち)の地名は神は上のことで小内は山谷の小平地からきているといわれていますが。一説では、昔、足尾から日光に登攀するため通りかかった巫女(神子)が急に腹痛を起こし死亡した。

 勝道上人は望みが果たせなかった巫女を哀れみ、地蔵堂(a02-2)を祀り弔ったといいます。以後この坂を地蔵坂と呼び、この辺を神子の内・・・神子内と呼ぶようになったともいわれています。 地蔵坂の地名は今でも残っていて日足トンネルの足尾側の峠に向かう急坂です、トンネルの右側に地蔵坂、左側側には滝があり地蔵滝と呼ばれています。

  (北日記)によると細尾峠を下り18日、「夜になってから巫内村(ミコウチ)に付き、源七の所に泊まった」ことになっています。翌、19日は「川を左にみて行く・・・岨道の危うき所へは木を横たえ藤にて結びぬ、川を目下にみて行く・・・」と有り今度は神子内人家一軒との書き込みがあります。野地又の書き込みがは有りませんでした。

 この場所は絵図では岨道(?)(a03)と表記してあり、今の「かたきり橋」の所です。今の神子内橋はなかったので右岸を通りますが、おそらくその手前になるのでしょう。ですから人家一軒の神子内はかたきり橋と神子内橋の間という事とになります(a02)。

 野地又の語源は神子内を経て細尾に至る道路と大和田沢から峠を越え古峰原に至る道路の分岐点にあることからなったという説もあります。この地からも縄文土器や石器が出土してますから早くの内から人が住んでいたことも証明されています。野地又の絵図の書込みでは川の左岸にあり、街道は右岸でしたから、江戸の頃は両岸にあったこかもしれません。

 今は昭和9年頃かけられた旧神子内橋(a05)がかかっていて、左岸にも行けます。左岸の柏木平には、明治の元勲の一人で外交交渉に功績のあった、陸奥宗光の神奈川県大磯の別邸で宗光の死後古河が譲り受け、移築した「豊潤堂」(a04)がありました。 今は建物は跡形もなく壊れてしまいましたが、跡地には石の灯篭や祠が残されていて当時の面影を見ることができます。

 現代では日足トンネルを出て神子内地区を通ると神子内橋(a06)を渡り野地又地区に入りますが、当時ここに橋はなく神子内川の右岸を通りそのまま大黒橋の所までいったもので、当時の街道の痕跡も部分的ではありますが残ってます。

 神子内ルートはあかがね街道ではありません、しかし「かたぎり橋」の所は絵図で残された雰囲気がそのまま残っていて、昔の街道を知る事が出来る貴重な場所です。

 

本山ルート a07 親水公園 ~ a12 大黒橋まで

 

  足尾地区のほぼ中心に大黒橋があります。先ほどの神子内ルートは細尾峠からこの大黒橋までですが、今の道は大黒橋の手前で122号線のバイバスと交っています。ここをバイパスと反対側に曲がった道が本山ルートとしました。従ってここもあかがね街道とは違いますが、明治以降の銅の生産の中心となり、当時の産業遺産も多くあります。

  今の渡良瀬川は大黒橋から上流に間藤、赤倉と上っていき足尾ダムの辺で九蔵沢、松木沢、仁田元沢に分かれ松木沢は皇海山に繋がっています(a07)。皇海山は松木山と紹介されていて、赤倉山の南にある山が字鼻鼠山との書き込みの場所と思われます。各沢沿いには集落が広がって村を形成していました。 勝道上人の鼠の話は、中禅寺湖の歌が浜からとすると、鼠をつけてきた道は阿世潟峠から九蔵沢を下り愛宕下から大黒橋。あるいは半月峠を越え深沢を下り間藤から大黒橋へと下る道があります。

  日光からの道は神子内コースに限られたわけではありませんから、歌が浜が出発地とすると、こちらの道のどっちかだったと思われます。

 江戸の末期の頃、松木村では戸数約30戸、人口は170名位はいたそうです。産業は蚕と農産物とありましたが。銅の産出に関係していたことは容易に想像できます。 この村の生活が一変したのは明治17年(1884)この村の2キロ南で足尾銅山の製錬所(a09)が操業を開始しました。それからわずか18年、明治35年(1902)廃村に追い込まれました。

 製錬所から出た亜硫酸ガスが農産物を奪いさらには山の木も枯したのです。 明治20年4月、松木では春恒例の畔焼がが行われました。畔につけられた火は足尾特有の強風にあおられて山林に飛び火、手の付けられない大火になり周辺の村々まで焼き尽くしたそうです。その後さらに煙害が激化し最後の残った村民25戸もわずかな示談金とともにその歴史を閉じました。

  日本の公害の原点といわれて渡良瀬遊水地のために廃村になった谷中村より5年も前の出来事です。 廃村になった集落跡はその後も草木が生えず、土が流され岩肌が露出しました。見渡す限り緑の無くなった沢は日本のグランドキャニオンと呼ばれ、登山が盛んになった頃はロッククライミング目当ての登山者が押し寄せました。 本山ルートには本山製錬所や水力発電所跡等、当時の産業遺産が数多く残っています、足尾鉱山は古くは江戸幕府の屋台骨を支え、明治新政府になってからは日本近代化に大いに貢献しました。しかし日本の公害の原点といわれ、その対策にも力を入れてきましたが、地元の住民もその犠牲になっていることを忘れてはいけません。

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a 足尾地区 町中ルート

町中ルート a12 大黒橋 ~ a17-4 愛宕橋まで

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a 足尾地区 磐裂ルート

磐裂ルート a17-4 愛宕橋 ~ a20 庚申川の石碑

 

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a 足尾地区 唐風呂ルート・峠ルート

唐風呂ルート 庚申川 ~ 餅ヶ瀬川

峠ルート 餅ヶ瀬川 ~ a25-2 沢入トンネル入口 

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