H 岡上景能とあかがね街道 笠懸・薮塚

h 笠懸・大原・薮塚 地区 鹿田山西ルート 古道北ルート 鹿田山東ルート

鹿田山西ルート g33 庚申塔 ~ h04 赤城神社

鹿田山西ルートの話し

 

 あかがね街道は当初は大間々から平塚に直接向かいました。鹿田山西ルートは平塚方面に向かうには最適で途中で馬に飲ます水も確保できます。また途中の清泉寺では天海上人が家康の遺骨を運ぶ途中で立ち寄った伝承が残されていて当初からの道であった事はほぼ間違いない様である。

 大原宿が開設されたのが1670年、桐原宿に変更されたのが1746年です。大間々の出発点であるg33の庚申塔は1772年と1796年が彫られている。これは大原宿が開かれても桐原宿が開かれても銅を運んだ可能性があり、何らかの形でこの街道が使われいたと思われます。一方g13の庚申塔は1761年、諸町の供養塔は1811年である。

 これ等の事から推測するとまず、g33の所から平塚に向かっていたのは間違いない。ただし大原の宿が出来てからも暫くはここを使っていた形跡があります、銅蔵が大間々から桐原にかわった当初はこの道が使われましたが、やがて鹿田山東ルートが開通、桐原からの道も東ルートに接続され、1761年以降は桐原銅蔵からの荷物は諸町ルートの方に替わって行ったものと思われます。それに伴い銅を運ぶ役目は卒業したと思いますが大間々宿は宿場町としての体裁が整っていて定期的に六斎市が開かれていたことから、g33からの鹿田山西ルートもそれなりににぎわった事が想像されます。

 

 大間々の銅蔵からg33地点まではは本通りをそのまま来たかどうかは不明である。この辺都市化に伴い道路が変更されている可能性があるからです。しかし、ここから踏み切を渡った道は清泉寺に真っ直ぐ向かっています。

 新里地区から笠懸地区に入ると左に馬頭観音があり鹿田山フットパスの入口があり、ここには庚申塔や道祖神(h01-2)があります。街道は石碑群を左にみて、道をそのまま直進します。街道は少し直進した所から、左の幾分高い所で、竹薮の中の細い道を進みました。すると、少し変則の十字路に出ますが、ここは直進の下りの道を進みます。すると下りきった所に半分くらい土に埋まった庚申塔(h02-1)があり今度は登りになります。登りといっても短くて登り切った所の左には梁瀬産業の工場があります。そしてこの工場の向かいの見晴らしの良い台地には中世のお城(泉澤城)(h02-2)がありました。

 街道は下り坂になり、左の崖の所には供養塔も見えてきます。すると間もなく右側に清泉寺(k03)の入口が出てきます。清泉寺(h03)はこのお城の菩提寺でもあり。近年になってからの物ですがお城の戦死者を弔った慰霊碑もあります。清泉寺は天台宗の古刹で天海上人とも関係が深く、先に神梅の覚成寺や萩原の善雄寺と同じ様ないわれがここにもあます。

 天海上人は世良田の東照宮の隣の長楽寺から出発し、あかがね古道を通りこの地にはちょうど昼ごろついたそうです。当時はまだ世良田東照宮は出来てなかった頃の事ですが、世良田からこのあたりまで約4里、4時間くらいの行程です。当時、泉水寺の本堂は今の場所ではなくもっと下の方でしたが、ここで昼食をとり神梅をめざし進んだそうです。 

鹿田山西ルート g33 庚申塔 ~ h04 赤城神社

古道北ルート h04 赤城神社 ~ h07 古道の碑

鹿田山東ルート g33 庚申塔 ~ h12 鹿の川沼のエノキ

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h 笠懸・大原・薮塚 久宮ルート

久宮ルート h08 石碑群 ~ 県道桐生伊勢崎線

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h 笠懸・大原・薮塚  古道南ルート 大原ルート

古道南ルート h07 古道の碑 ~ i02-3 新田の道標

大原ルート 県道桐生伊勢崎線 ~ i08 嘉祢の十字路

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