I 街道の終着は太平記の里 新田・平塚

i 新田・境平塚・木崎・亀岡 三ツ木ルート 江田北ルート 江田南ルート

三ツ木ルート i02-3 新田の道標 ~ 東武伊勢崎線踏切

江田北ルート i08 嘉祢の十字路 ~ i12 江田十字路

江田南ルート i12 江田十字路 ~ i18-1 明治期の猿田彦

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i 新田・境平塚・木崎・亀岡 平塚古道ルート 平塚新道ルート

平塚古道ルート 東部伊勢崎線踏切 ~ i25-3 銅蔵跡

平塚古道の話し

 

 あかがね街道の出発点は足尾である。そして当初のゴールは平塚の銅蔵であることは間違いない。ただ途中がその時代によって変わってきていることも間違いない。

 あかがね街道は銅を運ぶ以前は都市と都市をを結ぶ街道、中間の都市の生活道路であったことは容易に想像がつく、その中で平塚古道と仮に名を付けたこの道は銅蔵から総持寺さらには境三ツ木から綿内の長慶寺までほぼ直線である。ことから考えるとあかがね街道のあるなしにかかわらずそれ以前から街道があったと思われる。しかも大慶寺から先の道路は「県道の大原境三ツ木線」で古い道標には薮塚本町・大間々との記入もある。その上薮塚本町が太田市に合併する前に発掘され、あかがね古道の碑を建てたところまでもほぼ直線の道で通じている所を見ると、古道があったのはほぼ間違いない所と思われる。

 ただし、県の資料には載ってないし、絵図にも記入されていない、よって確かな資料はみつからないからはっきりと断定出来るものではない、しかし今後の調査で何か見つかる可能性は大いにある楽しみの多い場所である。

 

 平塚の赤城神社は、銘文から見ると嘉永六年(1853)に造営。下渕名の名工弥勒寺音次郎・音八父子の作と伝えられています。一間社流れ造り銅板葺きの向拝や胴羽目板に施された彫刻はどれも素晴らしく、伊勢崎市の指定重要文化財になっています。

 弥勒寺音次郎は宮大工として名を馳せ、音八は彫刻師として花輪の彫刻師集団の一人、岸亦八(h25-2,h26-3)の弟子となりました。国指定の文化財、笠間稲荷本殿には彫刻師として弥勒寺音八の名が刻まれています。

 赤城神社から河岸までの道の両側にお寺があります。一つは西光寺(i24)で文久、元治年間に洪水により流失、長らく荒廃状態にあったが昭和六年に再建。境内には県下最大の馬頭観音等(天保七年)をはじめとして多くの石碑があります。

 向いには天人寺(i25)があります。天人寺は建久五年(1194)慈敬上人の開山と伝えられてます。正徳年間の洪水により流失現在地に移転したといいます。境内には寛政七年の道標「右太田・大間々 左伊勢崎・前橋」があります。寛政七年には銅蔵はすでに亀岡に移ってますから、ここが銅山関係以外でも大間々方面の道として利用されていたことが分かります。

またここには明治35年の八甲田山の山岳遭難事故の時の福島大尉の墓(i26-3)があります。福島大尉は自らの隊の犠牲者はなく、青森歩兵5連隊の救助にも向かった弘前歩兵31連隊の司令官です。

 福島大尉は平塚の船問屋の長子で子供のころは太平記を愛読していたそうです。冬山についてはきこり、マタギ、農民等から情報を集め岩木山で雪中行軍を実施していました。その後は明治38年の日露戦争で活躍しましたが、38歳の若さで戦死。遺言により当地に墓が建てられました。

 お寺の間の道を通ると堤防に突き当たります。突き当りを右に曲がり少し上流に行ったところにかつての銅蔵がありました。今は銅蔵は残っていませんが当時の蔵の所は石垣の上に住宅(i25-3)が建っています。

 ここ平塚の地は広瀬川と利根川の合流点で少し上流部では烏川も合流してます。水量も豊富でここまでは大型船が来ることができ、ここより上流では小型船で運ぶようになります。そんな関係で古くから水運が盛んでした。一方悩ましたのは洪水です、大雨が降ると堤防はすぐに決壊し、作物は育ちませんでした。平塚の地やすぐ隣の島村で養蚕が盛んになったのもそんな理由からです。島村の地は今でこそ利根川の堤防で北と南に分断されてますが、堤防が出来る前はもちろん一つの村でした。世界遺産の田島弥平旧宅は北に分かれた地区に在ります。 

平塚新道ルート i18-1 例幣使街道分岐 ~ i25-3 銅蔵跡

平塚新道ルートの話し

 あかがね街道は当初は大原宿は無く大間々銅蔵から平塚銅蔵まで繋がっていました。1668年岡上公が銅山奉行に就任しその2年後1670年に大原宿が開設しました。それから18年後の1688年には亀岡銅蔵が開設し、前島河岸からの船出と変わりました。

 仮に大原銅蔵開設から使われていたとしてもわずか18年、おまけに薮塚・六千石地区の周辺は岡登用水を利用して造られた村です。すると大原銅蔵開設しても道路が出来るまでは、古道ルート利用していたと考える方が自然と思います。とはいえ少なくも江田南ルートは町の成り立ちからしても例幣使街道の所までは現行に近い所を通っていたものと考えられるし、例幣使街道も生活道路としてその機能を発揮していたものと考えられる。

 ここからは個人的見解であるが、岡上公は洪水や川底の上昇等で足止めの続く平塚河岸からその影響が少ない新島河岸に変えようと思っていたのではないだろか、その一環としてまず手を付けたのが大原銅蔵の開設で、その機能が十分に発揮できてから河岸を変えてのではないだろうか。

 当時は、街道の開設は簡単に行くはずはなく、水の手配から始まって途中の道の整備にしてもとても数年で終わる工事とは思えません。また大原は単なる銅蔵を設置するだけの場所でなく、都市計画で宿場町としての機能も併せ持っています。十数年かかっても不思議はないですよね。

 そんな歴史の中で平塚新道ルートは、河岸や世良田地区からの、生活物質や養蚕関係のものを運ぶ街道としての役割を担ったのではないだろか。

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i 新田・境平塚・木崎・亀岡地区 木崎ルート 亀岡ルート

木崎ルート i12 江田十字路 ~ i30-1 木崎長福寺

亀岡ルート i30-1 木崎長福寺 ~ i38 利根川河岸 

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