あかがね街道について  (全体の案内と観方)

   足尾銅山の本格的開発は慶安元年、日光大僧正天海から諸星庄兵衛政長が第五代の銅山奉行に就任し、正式に「御公儀御台所御用山」と指定された時から始められたのでした。

 足尾山中は室町時代までは日光山の支配地であり、銅の搬出も当初は細尾峠を越えて、日光通りが主な交通路として利用されていました。

 しかし幕府の直轄となり、東照宮の造営に伴い日光街道が利用できなくなったのと銅山奉行が変わったので銅の搬出経路が変更された・・・。と言われているが真実は定かではありません。

 あかがね街道は翌慶安二年(1648)に開設されました。この時の継立宿は、沢入・花輪・大間々・平塚の四宿です。

 銅山の銅は足尾で製錬され、一つ12貫(45kg)に作られました。 これを山間部では二つ、平野部では三つを馬の背に付けられ、継立といわれた銅蔵から次の銅蔵まで運びました。馬の速さを山間部で仮に時速3キロとすると、3時間から4時間くらいで着くることになり、荷物の積み下ろしの時間や昼食を含めても楽に日帰りできる距離となります。

 また、少しくらい遠回りになっても渡し舟を使って渡し賃を払ったり危険な思いをする必要はないわけです、当然、川を挟んで右と左で違う馬で運ぶことも考えれれません。ですから宿とはいっても馬や馬子達の宿泊設備は不要となり、各宿場では荷物の積み下ろしと休憩が出来ればよいということになります。 

 当初は大間々を出ると次は5里(20k)離れた平塚宿まで銅蔵は有りませんでした。そこで岡上景能が七代奉行に就任した時に中間の大原に銅蔵を開設したました、寛文十年(1670)のことです。

 さらに元禄元年(1688)には平塚の河岸が亀岡・前島の河岸に変更されました。利根川の水運は平塚までは大型船が利用できましたが、上流部は小型船しか利用できなかったからです。そこで平塚に決めたのでしょうが、洪水の為たびたび利用できなくなる時があるのでもっと下流の洪水の影響が少ない所が選ばれたようです。(外の説もあります)

 大間々の宿は延享三年(1746)に前橋藩領に編入され、幕府領でなくなったので大間々の西、河岸段丘の上部の桐原に変更となりました。以後、桐原の宿は廃道になるまで利用され、沢入・花輪・桐原・大原・亀岡の五宿が確定しました。山間部の花輪・桐原間の街道は現在も当時のまま残されいる所もあり、花輪、桐原、亀岡には銅蔵が現存してます。

「あかがね街道」は漢字表記では公式書類で銅山街道とか銅街道と書かれています。読み方は「ドウザンカイドウやドウカイドウ」と読んでも間違いではないようですが双方とも「アカガネカイドウ」と称しているのが一般的です、また街道沿いの村々に住んでいる人々はこの道路を往還(オウカン)と呼んでいたところもありますが、ここでは「あかがね街道」又は単に街道と表記したいと思います。

   江戸時代の古い資料で「五海道其外分限見取延絵図」いうものがあります。しかし享保元年(1716)幕府では東海道を除いて「海道」という言葉を廃ししているので「五街道分間延絵図」としました。この中に「足尾通見取絵図 全五巻」があり、主な図書館にその複製があります。ここではそれをベースに調査しましたが、道ははっきりしない所が大部分です。出発点も細尾峠から木崎の例幣使街道までで必ずしもあかがね街道とは一致しない所もあります。(絵図道、又は絵図と表記しました)

 そのほかには県教委で昭和58年(1978)「群馬県歴史の道調査報告書」として「足尾銅山街道」が出版されていて、これには脇街道も載っていますので、利用させていただきました。(県資又は県資道)しかし、明治期に作られら道も街道として載っていたり、トンネルの中を通っていたりして必ずしも正確とはいえません。

 報告書の中でも「峠越えや、渡河地点は不明な所が多く、調べる余裕がなく。かんじんの御用銅輸送の具体的姿はほとんど知ることが出来なかった。」と説明に有りました。また各自治体でそれなりの資料がありますので、これらを基に現地を調査して、具体的姿を明らかにするとともに、途中の村を紹介したいと思います。

 さらに沢入から荻原(関守)にかけての旧東村地区は、古美門圭一郎氏の「東村の銅街道」を。また、江戸中期の思想家で高山彦九郎という人物がいます。上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市細谷町)で生まれ、幕末の勤王の志士たちに大きな影響を与えました。彼は大変旅が好きだったらしく日本各地にその足跡がのこっています、同時に道中日記を詳しく書いていたので当時の生活を知る上で貴重な資料にもなっています。その中であかがね街道関係として沢入道能記(ソウリミチノキ、以下単に道の記)と北行日記(以下単に北日記)があります。沢入道能記は天明2年(1782)自宅のある細谷から桐原を経て沢入に行き寝釈迦と白蛇塔の見物に3泊4日で出かけました。二回目は寛政二年(1790)11月、北行日記として日光方面から足尾に入り神梅から赤城に抜けていきました。どちらも途中の様子が詳しく乗っているので参考にさせてもらいました。