東町地区観光情報

イベント情報


あかがねの道お奨め観光地(東町地区には街道の名所が沢山有りますがここでは隠れた名所を紹介します)

沢入ルート(沢入駅周辺  薬師堂)

 沢入駅前にあまり目立たないが薬師堂がある、参道の石段を上るとまず、観音様とお地蔵さんが迎えてくれる。

 ここに400年位前のお堂があり、礎石、石段と壊れて廃屋と化した跡から高さ20cmほどの薬師如来座像が発見された。

 台座裏には天正8年9月吉日の日付けと共に、「当院二代蔵春庵 芳林口、父母の為奉造立・・・」とあるそうです。

薬師観音信仰は医師も薬も無い時代、日本各地で盛んにおこなわれていました。病気と怪我の折、ただ神仏に祈るよりほかに方法の無かった時代、当時の暮らしの様子の一部を想いうかばせてくれます。

 この時代から残っているものは少なく、それだけに貴重な資産です。

草木湖ルート(矢沢観音堂)

  本来の草木ルートはダム湖に沈んで残され遺物はほとんど有りません。その中で矢沢観音堂にある十一面観音と奪依婆はは「市の重文」になっています。

 草木ダムはダム完成後に出来たサンレイク草木や草木ドライブイン、近年に出来た富弘美術館と風光明媚な景観で一年中楽しめる観光資源となっています。

 

神戸ルート(清水寺・観音堂)

 あかがね街道の神戸ルートはダム堰堤の所にある森の散策路として整備されています。大体の所は新しい国道122号と旧の国道の間にあります。

 旧の国道は自然豊かな散策路として整備され、ダムの所では旧国鉄足尾線時代の線路道に降りることも出来ます。途中でわらべ橋や琴平トンネルを通ることもでき。秋の紅葉や初夏の新緑の時期は素晴らしい景観を誇っています。

 街道は「コーヒー響」の所で下に降りることになりますが、ここは道が無いの直接行くことは出来ません。

 街道へは琴平トンネルの神戸駅よりの出口の上の小池の集落から桑ノ平橋の所への道が残っていて、この道は当時の雰囲気が残っています。


神戸ルート(太郎神社~二条の滝)

  「神戸宿並泊屋有り、是まで二里馬次にはあらず、出口右に忠綱大明神の社有り、」(高山彦九郎北行紀行より)

 彦九郎は太郎神社が大分気に入った様で、(沢入道能記)でも、忠綱大明神が行き帰りに出てきて、特に濁り酒が気にいったようでか盛んに飲んでいました。

 もしかしたら玉木屋さんのだったかもしれません。 ここから二条の滝までは雰囲気もあって当時の街道を彷彿させます。

 坂を下りきったあたりで、旧神戸発電所が見えてきます。 発電所は建物の崩壊が始まってますから中には入らない方が良いでしょう。わ鉄と発電所との間を街道が通っていますがなかなか情緒があります。

 ここをすぎると直ぐに二条の滝があります。規模はそれほど大きくありませんが凍るときっと素晴らしい景観になると思います。

 尚、二条の滝に行くときは玉木屋さんの土地を通るので一声を掛けるといいでしょう。

 

大蒼院ルート(大蒼院・鳥海神社)

 大蒼院(c15)(絵図では大空院)は創建は室町時代といわれ現本堂は棟札には寛政十二年(1800)と記されているそうです。

 また欄間彫刻(c15-2)には上州花輪彫刻師集団の中でも一際名を遺した三代石原常八の二代目石原常八主信の名が残されており、みどり市の指定重要文化財となっています。

 また境内にあるキリシマツツジは樹齢600年以上といわれこちらは指定天然記念物になっています。

 大蒼院の隣には鳥海神社C15-3)が有ります。大蒼院も鳥海神社も奥州安倍一族の縁があり鳥海神社は安倍宗任を祀っています。

 現在でも毎年9月に奉納されている「小中の獅子舞」は市の指定重要無形民俗文化財とされています。 大蒼院ルートは小中ルートが通れない時、桜木坂から大蒼院に登り、いったん根利道を進み阿入地区に辺で小中川(当時は鹿生川)を渡り、栃原から柳平地区を経て地蔵堂の周辺で小中ルートに合流したものと思われます。

座間・松島ルート(柱戸の不動滝)

  座間地区は座間峠を越えると桐生の梅田地区に出ることができます。銅の運搬も初期の頃で街道自体が確立してない頃はこの峠を越えて搬出したこともあったようです。

 渡良瀬の左岸へは今の草木橋の所に木の橋が有って対岸に渡れたようです。

 今は「わらべ工房」の所から柱戸川を遡上しています。

 近くには童謡ふるさと館や柱戸の不動滝を見ることができます。

 座間地区から旧小夜戸村地区に行く道は本来は山の中を通っていました。

 現代では川沿いに新道が出来ていて、大変景色が良く、紅葉の時期などは対岸に「涼みの滝」の側を走るわ鉄は情緒が有ります。

 「涼みの滝」とは正式名称でなくわ鉄から良く見えるので付近の方がそのようによんでいるそうです。

 松島地区は「寛政9年の百番供養塔(c29)から始まりまり、文化財にしたい様な古民家が有ります。

 松島は阿部宗任伝説が残る地区で対岸の小中地区の鳥海神社(c15)とは切っても切れない間柄なのでその時代によって、どこかに橋があったといいます。

 橋と云っても簡単な橋で片側を縛っておいて、水がでて流されるとそのロープを手繰り付け替えたといいます。

小夜戸ルート(豊郷神社・稲荷神社)

 小夜戸地区のこのルートは永禄十一年の多層宝篋印塔や元禄三年の石造五重塔等、貴重な遺構が多く残されています。

 

 その街道の丘の上にあるのが豊郷神社です。 豊郷神社は招福の神様を祭った社で、巨大な自然石の金精様が有ります。石段の右側には女陰杉の御神木もあり「多産豊穣・万物みのり」を祈願しており、この郷を神社の名のごとく、豊かな郷にと見守っています。

 

  小夜戸ルートの最後の所にお稲荷様(C36)が有りますが、ここのお稲荷さんは特別で、銘は有りませんが妻沼の聖天様(国宝)の彫物をした上州花輪の彫物集団が手掛けた物といわれておあります。

 市の重要文化財に指定されていますが、国の重文にしてもおかしくない出来栄えです。

 覆い屋で覆われていますがガラス越しに、見事な彫刻を見ることもできます。

 

 

 


花輪ルート(祥禅寺・三島神社)

 

 花輪の中心住宅街に入っていきますと、右側に祥禅寺(d08)の参道が見えます。祥禅寺は絵図にもお地蔵さまと一緒に載っていて流行の風邪を治す綿神様や聖徳太子が祀ってあり、石原和三郎や花輪彫刻家集団の祖と云われる高松又八郎邦教、石原吟八郎、石原常八といった名工の墓地もあります。

 また銅七福神の内布袋尊が祀られています。

  祥禅寺のすぐ西には三島神社(d09)があります。三島神社は康生年間(関ヶ原以前)糸井和泉守が伊豆の国三島村の神社を別祭しそれまで高八戸という地名を三島という様になったそうです。

 本殿は18世紀中頃の修繕記録があるそうでなかなか立派な彫刻が施してあります、調べてみないと分かりませんが花輪の彫刻集団の作かもしれません

 

荻原ルート(善雄寺・諏訪神社)

 

 善雄寺(D17)は天台宗の古刹で傳教大師の高弟暁海和尚により大同元年(806年)の草創とされる。

 江戸の初期天海僧正(慈眼大師)が元和三年四月、久能山より家康公の御骨を捧げて日光へ登嶽の折に立ち寄られた御縁により、幕府から御朱印十一石二斗を賜った、との伝承があります。

 天海上人が立ち寄った伝承が残るとされるお寺はこの先、神梅の覚成寺(f08)にも残っています。

 距離からすると両方に泊まったとは考えられませんが、足を痛めたとの様子もうかがえられるので泊まった可能性を否定できません。また休憩の場合は十分ありうることです。

  参道入口にある宝篋印塔(d17-1)は高さが約4.5mほどあり、みどり市の重要文化財に指定されています。

 境内にある窖(あな)薬師堂は 文化11年(1718)第二十二世 堯慶(ぎょうけい)上人の御廟所で 堯慶上人が80歳になられたとき、疫病から人々を救おうと発願し、穴を掘られて入定しました。

 堯慶上人は義白と称する俳人で本道前には芭蕉の句碑(d17-4)を建立してます。石碑には「此のあたり目に見ゆるもの皆涼し」と刻まれています。

 また天保9年(1838)には幕府巡検使が当村を訪れ、「・・・コノ辺スベテ渡良瀬川添、山坂道、山水の奇観を尽セリ、一景を図す・・・」として当時の模様を水墨画にのこしています。

 この巡検使は花輪村に泊まり帰りは荻原村に戻り荻原の広瀬で大畑に渡り八木原村より塩沢峠を通り帰国しています。

 尚花輪銅蔵の高草木家文書にも、花輪村より桐原まで深沢通り道は渡船場はないが御道新道の塩沢通りは萩原村の広瀬と浅原村の沢(戸沢の渡し)の二か所に渡船場があると記載されています。

関守ルート(万年橋跡周辺)

 

 関守地区の北方に五覧田城址があります。五覧田城は、沼田方面からの敵の侵入に備え築城された戦国時代の山城で、戦略的な要衡として、越後の上杉謙信、新田金山城(太田市)の由良氏、深沢城(桐生市黒保根町)の阿久沢氏による争覇の舞台となりました。

 その後の五覧田城は、阿久沢氏が小田原北条氏方として豊臣秀吉の小田原攻めに対抗したため、天正18年(1590年)に廃城となったと考えられます。 関守(d21)の一番奥に公民館があり、現在はここまでしかいけません。

 左手に供養塔(d21-1)のある墓地があり、その手前に川に向かう様な細い道があります。これが街道です、道の右に小高い丘があり、庚申塚(d21-2,3)の状態になっていて上流からの水害を防いでいるような感じにもなっています。

  (絵図)では関守には木造の橋があって、脇の道ながらきちんと表記されていました。関守の橋は黒保根村史では万年橋(d22)と呼ばれ、あかがね街道としてばかりでなく、沼田・根利方面の主要な街道の橋として、重要な役割を担ってたと考えられます。

 また当時は川の両側が関守地区とよばれていた様で、黒保根の名主の「星野氏」は関守で刀鍛冶だったという逸話が残されています。