F 街道の中心へ 神梅・塩沢

f 神梅・塩沢・塩原地区 深沢ルート1 深沢ルート2 日光坂ルート

深沢ルート1 深沢川 ~ f06-2 分岐の庚申塔まで

 

深沢ルート1の話し

 

 深沢川に架かる 橋を渡ると上神梅 です、 渡ってからは踏み跡程度 (f01-1) しかありませんが、庚申塔や石 の祠 (f01-2,3)は残っていて当時の面影を彷彿とさせます。

ここから広い道に 出た所には(絵図 )には有り ませんが、角地蔵が有ります。

 角地蔵 (f02)は、 宝暦 2年( 1752)に正円寺 28 世盈仙和尚が、 天正7年の合戦でなくった戦士を弔う ための 地蔵堂建立のため各村に行脚し浄財を集め、石工を招き仏像を彫らせていた。たまたま不思議なこ とばかり起こるので、頭部が完成されず石工が逃げ出したいう 逸話も残されています 。

 このことに ついて天明の頃、高山彦九郎が深沢宿を通った時の日記に「石工に申付けたる石工価にあたらて半途にし逃げりといふ。」と書いてある。土地の人は寸法ちがいで出来ず「間違い地蔵」と呼 んでいる。 (みどり市 HP より抜粋)

 あかがね街道は沢入、 花輪、桐原(大間々)大原、亀岡(平塚)の五つ宿場に銅蔵を配しましたが、もともとは生活道路で絹の道でもありました。すると銅以外の物流も賑わってきます。

 ここ深沢宿は初期から後期まで一貫して銅蔵こそありませんでしたが、銅山関係の主要街道としての役割を担っていました。また花輪宿と桐原宿の中間に有り、市場町として栄えた大間々の入口として、旅人達が一休みす る場所 にと 賑わった場所です。 銅の 運搬以外なら、 ここで 一泊すると足尾から亀岡まで、それほど無理な く二日で行くことも可能です 。因みに高山彦九郎は沢入を朝に出発して、袈裟丸の寝釈 迦を見物、その 日のうちに暗くなってからですが桐原に泊まってます。

 深沢宿は、 ほぼ一直線に下ってい て、 昭和初期の火災で は北からの強風にあおられ 古い家屋はすべて消滅し てしまいました。しかし、残された石仏や石碑等(f03-2,3)には当時の面影を残しています 。

 道の中ほどから下に降り る所が有ります。道なり に下り、国道を越えると「神梅館」(f05)があります。

 この 鉱泉は 明治 45 年 3月のこと、正円寺和尚亮兼が病に倒れ角地蔵にお参りしまた。するとあ くる晩、和尚の夢の中に角地蔵尊が現れ「深沢宿清水田畔湧き出鉱泉がある。その湯を浴すれば 病は治るであろう」というお告げをしまた。円正寺は深沢川対岸黒保根地区の深沢城の傍に有ります、深沢城は神梅城とも呼ばれることもあり両地区は昔から深い関係が有りました。

 明治期の合併では神梅地区は黒保根村でした。 神梅館の鉱泉は 、カルシウムが豊富に 含まれている単純泉で、昔から「痔」胃腸病神経痛など大変良く 効と評判の高い霊泉です。 (神梅館 HP より)

 深沢ルート2 日光坂ルート

深沢ルート2 滝ノ沢土橋~国道の分岐

日光坂ルート f12 国道の分岐 ~ f13 峠の道標

深沢ルート2の話し

 

 宿場を下ると道が二股に分かれます (f06-1) 、(絵図道 )は右に行きますが、真直ぐいくと細い道が有り ます。 (県資道 )はこから下に降り国道と交わった あと渡良瀬を渡る道と国道をそのま下る道になって ますが、  (絵図 )から解釈すると 、下りの道は貴船橋の辺りを渡船で塩原に渡る為で、その先の国道を通るということはなかった思います 。絵図を見れば深沢宿から滝ノ沢土橋を渡り覚成寺の所までは間違いない所です。

 覚成寺 (f08)は伝承でも北西の山中にあったといます。実はここ覚成寺にはあかがね街道関る面 白い話が残されています。
 その一つは境内に天海 大僧正の御座石なるもがあります。これは 上人 さんがこの辺を旅した時、日 光坂を下りた周辺で 足をくじいて休んだそうです。この近くの家で治療したので今も「フンチガエ」 の屋号の家があるそうです。 ですからこの石は、 元々は桐原方面からきて日光坂を下りた所に有った物ですが、邪魔にされるので先代の住職が境内に持ってきたといいます。
 上人さんはこ の時乞食坊主に身をやつして家康公の分骨を日光に運ぶ途中だったいうとです。豊臣の残党の目を欺き、 本隊は煌びやかに日光街道を宇都宮へ向わせ、本物の遺骨はは川越喜多院から熊谷・深谷・利根川を越えて世良田(後に東照宮が出来る)からあかがね街道となる道を北上して桐原から ヒウチ坂を登り日光 坂を下って神梅の覚成寺まで来たといいます。この坂の名は天海 上人に因んで つ けたと伝えられています。

 上人さんは覚成寺に一夜の泊を願いでた所、山海珍味で歓待され、いたく感激して素性あかし、遺骨 と共に奉持する「家康公御本守尊 北辰妙見大菩薩  (f08-6) 」と純金の「独鈷を下賜され たとのこで す。 このうち 純金の 独鈷は盗難にあったか 紛失しのか、売却かあるいは 初めら無ったの真相分かりませんが 行方は分からなくっています が北辰妙見大菩薩は大切に保管されております 。天海上人が家康公の遺骨を運んだという話は荻原宿の善雄寺(d17)にも残されています。

 二つ目は 、家の前に石で造られた箱状物( 2.0m0.6 m位)があり、かつてこの石棺はあかがね 街道の馬の水飲み場だったではないかと思われています。一つでは考えられませんがいくつか並んでいるうちの一つなら十分考えられます。
 三つ目は、 (絵図)には覚成院の左に薬師堂があります、そこの御本尊薬師如来坐像  (f08-5) 、本来古い物ですが金で修復しました、その時下に敷いてあった板から墨書きが発見され、これにはなんと「運慶作」と書かれていま す。もし本物なら国宝級 ?金で修復したのが悔やまれす。
 四つ目は、最大の秘密で 本殿の向拝の蟇股に猫の彫物  (f08-4) があります、これは あの左甚五郎が眠り猫 の原型としてこで練習たとの口伝 があります。左甚五郎はおそらく日光街道を利用したでょう から 、信憑性は薄れますが上州の左甚五郎といわた関口文次郎なら大いに可能性があり、本物なら重要 文化財クラス です。
 覚成寺前を 通ると 右に曲がる道ありそこは神梅神社に繋っています。
 神梅神社は絵図では神明と書かれています。長い石段を登ると境内広場に出て右に拝殿と覆屋が見え、 覆 屋の中には本殿が安置されています。
 本殿は一間社流れ造りで、胴羽目や小壁等を高肉透かし彫刻で覆い 一段と豪華な意匠に仕上げています。また内陣の床板裏に 「安 永四年 (1775)の年号と江戸神田通新石町 細工人宮本元右衛門」の墨書が 残され ていたとうことで 、時代の特定ができています。しかし宮本元右衛門なる人物に関ては解らない ことが多く、花輪の彫刻家集団 との関係は有無等不明のままです。  (大間々町誌より)

 しか花輪の彫刻 集団の祖高松那教 亦八は江戸神田九軒町在とあり、その弟子に黒門在や紺屋町在となってる方も い ます、関係があっても不思議はない ですよね。

 街道はやがて国道に出たあと再び山に入りますがそのあたりに高札があり、その先の道の曲がり具合も現在の道に似ています。

 

日光坂ルートの話し

 

 少し戻りますが 旧神梅小の所から福寿草園のい所を通り墓地の所から国道に出ます。 国道の脇に集荷場が有り 、街道は集荷場 の裏手を通ってい て国道沿いでは唯一と思われる石碑 群 (fd11-1) が残されています。街道はこから国道沿を大釜の所まで 行き案内看板のある所で山道に入ります (f12-1)  。
 こから 入る山道は 道幅は比較的広くそれほど急で は有りませんが、 (絵図道 )での最後の難所、日光 坂 (f12-2) と呼ばれている坂です。
 日光坂の道は 、明治期に神梅新道が出来る前は大間々 地区 と渡良瀬上流の地域を結ぶ主要道路して機能が有 ったので所々にはガードレルもあ りますが、今の 街道は 車での乗り入れはきません、この道を進むと 峠(f1 3) に出ますが左には手振り山がみえ手振り山からは大間々の町が一望で来ます。峠から先は瀬戸原で (絵図 )でも桐原村となり、燧坂と遠入坂に分かれて降ることになります。ここの別れ道までが日光坂と呼ばれているようです。

 日光坂は難所と呼ばれていますが、実の所それほど急な道は多くなく、どちらかと云うと八木原から塩沢に抜ける塩沢ルート道と比較しても大した違いはありません。塩沢ルートは渡良瀬を二度わたらなければならないのですから、ことらの本道を利用したのもうなずけます。

地図へ e13f  e14f  f15g

e 神梅・塩沢・塩原地区 塩沢ルート 塩原ルート

塩沢ルート e34 峠の青面金剛 ~ f21 道祖神

 塩沢ルートのはなし

塩沢ルートは桑代ルートの延長で(絵図)では渡良瀬川の左岸になるので桑代山や十二社山神の書き入れはありますが、荒神山までで、峠を越えた塩沢の書き入れはありませんでした。

 昭和33年まで塩沢地区は黒保根村でしたから明治の新道開発の時八木沢から来た道と一緒に開発された新道があります。ですから新道がはっきりしてます、しかし旧道は痕跡や踏み跡程度ではっきりしていません。それでもおぼろげながらある旧道は、新道との位置はそれほど違ってはいませんでした。

 峠の青面金剛(e34)の所より旧道を進み、塩沢の里に下りた所に元文五年の庚申塔(f14)があります。ここから塩沢川沿いに街道は伸びています。川沿いを少し下ると赤く色のついた観音様(F15)があります。この観音様の後ろにある道が明治期の新道です。

 塩沢川とは途中で分かれますが赤城神社(f20)の辺まで庚申塔や二十三夜塔が点在してます。赤城神社の先は切通しになっていますが当時は峠越えの状態と思います。ここを越すと塩原村の入る事になります。ここから先は、ほぼ一直線で南下し、享保一六年の双体道祖神(f21)に所まで続きます。

 道祖神の所は広い道は道なり右に曲がりますが良く見ると直線状に進む道があり、右はかつての大間々町時代の名物町長、新井整氏の出た家です。ここをそのまま進み小さい橋(万年橋)を渡ると道は山道となり、この辺りから浅原地区になります。折り返しながら登り、少し行くとさらに山に登る道が左からきていています。そのまま進むと山を回るように行きます。左にまがると、さらに登り、登り切った所から左にまがります。どちらを行っても途中で合流し、道なりに進むと水力発電のパイプの水路がきてますがここには橋があります。橋を越すと左に曲がって浅原村の虎久保地区に入るようになります。

 街道は曲がらず真直ぐです。ここに踏み跡らしきものもありませんがそのまま進めば踏み跡が出てきます。水路の脇を下っても踏み跡に出ます。この踏み跡を折り返しに下ると県道に出ます。すぐ目の前に発電所があり、県道に出た所には寛政五年の庚申塔(f22-3)があります。この庚申塔の裏には文字が書いてありますが、判読できませんでした。なんて書いてあるか興味深々です。

 戸沢の渡しへは、ここからは発電所の敷地の中に入り河原から戸沢に渡ったと思います。因みに新栄橋から庚申塚の所まで下の道や川に下りられることの出来るような場所は見つかりませんでした。

 因みにそのまま虎久保地区に入ると地区の中心部を通り禅桂寺に行きます。おそらく県道が川沿いに通っていない時は塩沢と浅原を繋ぐ貴重な道だった事が伺い知れます。また川止めになった時は虎久保地区が休憩所になったことでしょう。

塩沢ルート e34 峠の青面金剛 ~ f21 道祖神

塩原ルート f06 二股分岐 ~ f21 道祖神

浅原ルート・荒瀬ルート f21 道祖神 ~ 渡良瀬川 

地図へ e13f  e14f  f15g