三代 石原常八利信

 三代目を襲名したのは二代目の倅、常蔵(恒蔵)であ る。生まれたのは文化八年(1811)二代目常八の 25 歳 の時の事である。亡くなったのは明治一五年(1882)享年 71 歳。 二代目は(1857)安中の長伝寺仕事を完成させた後三代目 を譲りました。三代目の出世作が羽生の須影八幡(1858)となっ ていますが、実際には妻沼の聖天堂貴総門や押切の三柱神社の時頃から父と一緒にあるいは代わってノミを揮っ ていた様です。  彼の出世作といわれている須影八幡が47歳の時ですから当時としては遅い出世となり偉大な父の名の元 に隠れていたことは想像できます。

 ところで須影八幡の向拝には見事な親子の龍(写真左)が彫られていました。親子の龍はここだけではありません。二代目の事実上の出世作といわれる板倉の雷電神社拝 殿(1819)の向拝にもあり。飯田仙之助(倅岩次郎との共作)の箭弓稲荷拝殿(1835)の向拝にもありま す。

 そればかりでなく三代目の長男の改之助は尾島の正光寺に親子の龍を彫りその裏に八代石原知信の 銘を残しています。

   聖天堂貴総門の大工は林正清から五代目のあたる林正道で、羽生の三村正利の実の弟昌道です。彫刻師としては、三代目常八がメインで二代目の常八や飯田仙之助の弟子で一時は養子にもなった岸亦八も協力していたようです。

 岸亦八とは最初の共同作品で、これが縁かどうかは分かりませんが三代目の倅 達は岸亦八に弟子入りしたり、養子に行ったりしています。

 桐生の浄運寺の前机には石原常八の名前が刻まれており、その脇には改之助と鶴次郎の名がある。改之助は三代目の長男で鶴次郎は二代目の次男で三代目の弟になる。するとこの場合は三代目常八となりますが、このお寺には少し前に「花輪 常八」として欄間彫刻があり、ではこれはどちらかということ になる。浄運寺の本堂の建設年代は(1755)年頃と伝わっています。

 この頃は初代吟八が元気な頃で向拝の 龍の目に細工がしてあるところからも吟八である可能性が高い。すると歴代石原家の彫刻が見られるこ とになり珍しい遺構となります。

上段左、妻沼聖天堂 総貴門  上段右 羽生須影八幡

下段左、板倉雷電神社 上段右 東松山 箭弓稲荷


御用彫師 高松義武 八代 當国花輪 石原知信

 尾島の正光寺の向拝の龍の裏面に残されているのが上の名前、石原改之助のことで通常なら四代目石原常八を名乗ると思いますが上のように彫られていました。改之助が生まれてのは天保四年(1833)亡くなったのが明治二四年(1891)行年58歳ということになります。

 正光寺本堂は文久二年(1862)といわれているので29歳の時の作品となりこの時はまだ石原を名乗っ ていることになります。ところで八代目からさかのぼっていくと「七代 石原常八利信」「六代 石原常八主信」となる。ここまでは問題ないが次はだれにするか、常八雅詖とするとわずか7歳で継ぐことになります。そこで繋ぎが必要になりここは「五代 飯田仙之助義棟」となる(詳しくは二代目石原常八を参照してください)。次に「四代 石原常八雅詖」 、 「三代 石原吟八郎明義」「二代 石原吟八郎義武」となり、初代を義武とするとどうしても、あと一人足りなくなる。

 無理に入れようとしても入り込む場 所がないのである。ここは「初代を高松又八郎邦教」とすることもできる。 伊藤隆一氏の論文によると蜷川佐平太(又八)には兄金兵衛がいて、武士の家系を継いだようです。
 佐平太(又八)には倅が三人いてその内二人は武士のままで次男が二代高松又八郎(頼直)を名乗り彫 刻師を継ぎ、その後は三代又八郎(頼品)まで載っていました。 二代頼直までは作品も残ってますが三代頼品となると諸国遍歴・・・となっていてその後は分かりません。明治になってから三代目の次男歓治郎が横浜に行って高松政吉として活躍しますが、果たして高松家を継いだのか新しく興したのか分かっていません。

正光寺の向拝の親子龍(石原知信の銘)

正光寺前、阿久津稲荷の海老虹梁

阿久津稲荷身舎下の唐子


 高松又八は花輪で生まれたともいわれ、吟八が生まれる以前から花輪に工房を構えていたようで、今も祥禅寺再興の祖といわれていることからも花輪の地が拠点であったと思われます。又八の二代目は倅頼直が継ぎましたが江戸に帰ってしまい、実質上の花輪の高松家を継いだのは吟八郎であり、祥禅寺のお墓には又八邦教と二代目の頼直の他は吟八郎義武になり初代常八(墓誌のみ)二代常八と続いていま す。吟八郎は事実上の二代目を継いだとことから、又八の二代目とも考えらえます。

   ではなぜ二代目を継げたのか、又八の弟子は12名ほどいて多くの弟子は遠くから修行に来て帰ってから活躍しますが。中には新井孫四郎や板橋伊平次、田沢与兵衛のように地元の人もいます。

 又八も吟八郎も生まれた年がわかっていませんが、その活躍した背景から推察すると吟八郎の生まれは元禄の中頃と 思われ、又八は 1670 年頃改名して高松又八を名乗りますが、この時を20歳とするとして、地元に最初 に名を残すのは桐生の大雄院須弥壇を手掛けていますが、この頃の年齢は40~50歳前後と思われます。吟八郎が生まれたのはこの頃と思われます。年齢的には少し無理がありますが、もしかすると吟八は又八の妾腹としてもおかしくない関係があ りますよね。 

 話は少し脱線しましたが、改之助は阿久津稲荷に龍を彫ります。明治になると東照宮関係の仕事は無くなり花輪の地に住む今が無くなったのか改之助はあかがね街道の終点の地尾島の高澤家に養子に入り名前も変えました。明治18年頃には宮内庁彫物師を務めたようですが、新政府の廃仏稀釈や寺社増改築の激減で名彫師でも生活は苦しかったようです。

 次男の歓次郎は(1841)に花輪で生まれ15歳の時に岸亦八に師事し後に横浜で高松性を名乗り家具彫刻を営みます。

 右の写真はあかがね街道街道桐原宿の杉森稲荷の向拝です。制作年代は明治42年ではないかといわれています。明治のこの頃高松政吉とその倅末頃は桐生やその周辺で山車の制作にあたっていたようです。

 二代目が新里の善性寺の時前借したのは前に書きましたがこの時のあて先が「桐原宿 藤生善十郎」となっている。年代は安政二年(1855)となっている。藤生善十郎氏は安政六年に横浜が開港した時、横浜外国商館に直接売り込む「生糸直売商」を行いました。

 高松政吉は明治十年(1877)には創業し、由緒ある彫刻大工として「彫刻家具の四天王」の数えられ、その後、代替わりした高松常作は関東大震災の頃まで活躍したようです。

 政吉がその後もこちらに来て山車の彫刻を手掛けるのも横浜ですぐに創業で来たのも藤生善十郎氏との関係があればうなづけます。高松氏の系図が偶然横浜に残ったとは考えられず、新しく興したと見る方が自然と思います。

 因みに杉森稲荷稲荷は藤生氏の自宅のすぐ側で、当時の藤生家の財力からすると明治新政府の廃仏稀釈には関係なく作れるのもうなづけます。

 資料が少なく優れた作品でも作者を特定するのが難しいですが江戸の中期高松又八で始まった彫刻が廻り廻って、最後の作品があかがね街道花輪宿の次の桐原宿で終わるのも何かの縁かもしれません。 

 三男の幸作は(1843)花輪で生まれました。藪塚の岸亦八の二代目大助の娘婿となり三代目を襲名し優れた作品を残してるといいますが、その腕の良さからかえって不幸な事件に巻き込まれ若干28歳で没したといわれてます。

 早くの内に亡くなってますから残されている作品は少なく、藪塚の長建寺の欄間彫刻には亦八、大輔、と共に幸作の名も残っています。幸作の倅寅次郎は横浜の叔父の高松政吉を頼って家具職人の道を歩んだ様です。