石原吟八郎義武
上州花輪村生まれ、亡くなった年は明和四年(1767)幾つで亡くなったかは分かっていない。したがってその出生は分かっていないがお墓は祥禅寺にあり、師匠の高松又八と同じ墓に眠っている。
彼の作品は比較的多く、優れた作品を残しているが、棟札のようなものは残していないで、作品の裏に墨書が残されている程度でそれとて分からないものが多い。しかし又八の弟子のうち遠くからきて独立した者を除いて地元の者を引き継いだようでその後の花輪彫刻を引き継ぎ、多くの優秀な弟子が巣立っていった。
彼の作品の主なものは先ず国宝になった妻沼の聖天堂でこれは花輪の彫刻師が総出で作った作品です。妻沼の聖天堂は奥の殿を立てたころ洪水に襲われ、一時工事が中止になりましたがその時はすでに作品の大部分が出来上がっていて、再開されてから大工の棟梁「林兵庫正清」が亡くなった不幸があったが何の支障もなく出来上がったようです。
奥の殿が上棟したのが寛保元年(1741)洪水により中殿と拝殿の工事は中止となるが奥の殿はその後延享元年(1744)には完成してます。
実は寛保三年(1743)、まだ完成はしていませんが大工さん達の仕事は終わったようで大間々町の小平地区の嵯峨宮のお宮を手掛けています。小平地区は一山越すと小夜戸地区に入り、花輪地区とも交流がありました。大工さん達も洪水が無ければいくら作ってあったとは言え、中殿、拝殿と続けば他の仕事はできないので臨時的に行う仕事が必要になります。なんのつてもないところにはいくら何でも来られるはずはなくここは吟八郎の紹介とみるのが自然で、聖天堂を手掛けた林兵庫正清とその弟子達の棟札が残されていました。
当時、幕府お抱えの宮大工はそれに相応しくない仕事をすることはなかったが、この頃より庶民の建物を手掛けるようになってきた、妻沼の聖天堂は地元の有志達の浄財で始まったが洪水に見舞われては資金的にも続けるわけにはいかなった。そんな中で始まったのが嵯峨宮で、このチームはその後桐生の青蓮寺、さらに熊谷の江南諏訪神社と広がっていった。
その中で江南諏訪神社は県の文化財の調査で詳しく調べられ創建が延享三年(1750)彫刻師は棟梁が吟八郎、それの弟子として前原藤次郎・深沢郡八さらに小沢五右衛門、同門弟二名とあるそうです。
このうち小沢五右衛門は高松又八の高弟で花輪で生まれ神田で活躍した植村弥右衛門の弟子で聖天堂の彫刻でも妻面の鳳凰に墨書きを残しています。余分なこととは思いますが聖天堂の鳳凰は又八の高弟の吉田茂八の弟子の後藤茂右衛門も対になる形で残しています。後藤茂右衛門は下野富田の彫刻集団の祖となりますが、宝暦二年(1752)58歳で亡くなっています。
吟八郎には男の子供があった形跡がなかったことからその跡継ぎには問題があったようで、跡を継いだ人物が二人出てきました。二人とも生前の作品には名前が出てこないことからはっきり分かっているわけではありません。ただ彼の弟子の中から出たことは間違いなく、技量、経験、人格ともそれにふさわしい人物であったのは間違いないと思います。