初代 石原常八雅詖

「小夜戸稲荷と花輪彫刻師の秘密」

 花輪の彫刻の祖といわれる高松又八よって撒かれ種は石原吟八郎にそだてられ、三代にわたり名彫刻家として名を残した石原常八の頃に花を開いた。しかし初代の常八についてははっきり彼の作品として残されているのは高尾山の飯綱権現堂の彫刻背面の墨書のみである。

 その墨書きには安永九年(1780)の日付の他に「桑原新蔵  16 歳」と弟子の名まで記入してあるそうです。 
 新蔵のことはちょっと置いておいて初代の雅詖(マサトモ)についてはその人となりさえもよくわかっていないのが現状です。わかっていることは寛政五年(1793)に 76 歳で亡くなったと祥禅寺の石原家の墓誌にあるそうです。 しかしそこに墓石は無く眠っているところは別の所らしいのです。

 二代吟八の時にも書きましたが、初代吟八には男の子供がいないらしく跡継ぎははっきりわかりません、初代吟八が亡くなったのが(1767)から算定すると、初代常八 50 歳の時ということになります。 


  二代目吟八郎の名が出てきたことにより、初代吟八が亡くなった後、二人の跡継ぎが存在したことになります。片方は吟八郎を名乗り二代目としてその名声を引きいだ様ですが、一方は墓誌にもある通り常八と名乗り高松又八を含めた事実上の石原宗家を継ぐようになります。 
 石原家を継いだものはどうするか、まず家名を閉ざさないよう弟子を育成しなければなりません、同時に跡継ぎ候補を育てるのも重要な仕事となります。弟子の育成はどうしたか、刃物を使っての仕事、手ごろな練習台なんてありません。まずはいらなくなった木っ端を利用したことは間違いないと思いますがそれだけでは不十分でしょうね、私はそれが柱や梁の地紋彫ではないかと思いました。一つ一つを正確に木材の性質を見極めながらノミと玄能を使ってコツコツやる仕事は見習いにはうってつけの事、修行には最適ではないかと思います。しかしこの文様は同じことの繰り返しで型紙が無ければ熟練工でも不可能ですよね、この型紙はおそらく墨ツボ,墨さし、差矩(さしかね)を駆使してまず版木を作り、印刷したものを利用したのではないでしょうか。実は小夜戸稲荷には二十数種の地紋彫(写真左)があり見本とか展示品だったのではないかとの見方があるくらい地紋彫が多く、こんなところにも・・・と驚くようなとこにもあります。これだけの量の版木を残せるのは石原宗家の他には考えられません。地紋彫りは柱や長押等に施すところから大工の工房に行って作業をすることもあるでしょうし、失敗は許されません、したがってまずは基礎をしっかり学んだものでないとできず、個人名で売りだすのではなく宗家の作品に相応しいものとの見方もできます。 
 するとこの時の宗家を継いだ初代常八は飯綱権現堂の墨書に後継者候補の年まで入れて売り出した、こともうなずけます。しかし初代吟八の娘に男の子供がいたらどうでしょう、この子が正統と名乗れるのであれば何の問題もありませんが、それができない人物であれば、この頃はまだ若くこの先どうなるかわかりません、そこで跡継ぎにしてもいい様に必要以上に宣伝しておくことは代を引き継ぐことに有利に働きます。同時に吟八の二代目としてあまり前面に出すと宗家の事実上の二代目がかすみます。よってこの時は初代吟八の次は初代常八でその次に二代常八候補をそろえておくのがベストと思います。
 しかし、やがて吟八の娘の子が成人し次の男の子供が生まれます、それがのちに本来なら二代目常八を名乗ることになる男の子で、初代吟八の孫になります。この時常八 69 歳、実の父親は別にいるとみる方が自然です。現に石原家のお墓には二代常八は眠っていますが初代常八の墓石はありません。桑原新蔵は鳴り物入りでデビューしましたがその後は大した仕事はしていません。

  初代常八はこうなると二代目常八の将来を考え石原宗家のバトンをきちんと繋ぐ事を考えなければなりませんそこで小夜戸の地に展示品としても価値のある、稲荷神社(前ページ飛龍)を作って将来に備えたのではないでしょうか。二代常八の父親はどうしていたのでしょう・・・まず名乗れない理由があったと考えられます。しかし後見役として成長を見守っていたことはその後の二代常八を見ればわかります。こんなドラマみたいな人物(二代常八の実の父)がいるのか・・・それが一人だけいます。

  その前に、ではこうまでした初代の常八はだれかということになります。すると二代吟八が前原藤次郎であるなら、藤次郎の弟子、あるいはパートナーとして名を残している松島文蔵雅朝(マサトモ)しかいません。吟八の弟子となり、師の死去の頃独立、この時藤次郎と協力して工房を立ち上げ同時に自分の息子の金蔵と藤次郎の二人の息子を面倒見ることになったのではないかと思う。
 初代常八は亡くなった年とその時の年齢がわかっています。それから逆算すると聖天堂の奥院上棟の年に 24 歳、藤次郎はもう少し上と思いますが。年齢的には一番の働きどころ、10 歳の子供には頼る必要はありません。江南諏訪神社では藤次郎が名を残していますが、文蔵としても次を期待して後継候補としても相応しい経験と年齢を備えています。
 また、初代常八が墨書を残している飯綱権現堂は栗原新蔵の他に、支輪の墨書に松島金蔵、前原兵蔵の名が残されていますが文蔵の名はありません。 名前も「マサトモ」とし同じ読みです。おまけとして松島親子の出生地ははっきりしている訳ではありませんが稲荷のある小夜戸地区の北に松島地区があり、ここの地区の方は松島を名乗っている方が大勢います。
  最後に小夜戸稲荷にもう一つ大きな秘密があります。それはお堂正面の階(きざはし)が一本の木からできています、これだけでは珍しいで終わるのですが文蔵には倅、金蔵がいます。弟子としていくつかの作品を手掛け先の「飯綱権現堂」の時は墨書も残しています。この金蔵が婿養子に行ったと思われる先が上田沢で文治郎の門下生のひとり、尾池伝次郎です。婿養子に行き苗字を変えた金蔵は尾池金蔵として、小夜戸から山を越え、小平の先の浅原地区の菅原神社を手掛けています。小夜戸稲荷を作る四年前ということになります。実は、この頃の彫刻師は花輪も田沢も大きな仕事を抱えていて一番忙しい時期だったかもしれませんが、親子して協力して作った可能性もあり、ここの神社の階も一本の木からできています。 尾池金蔵は聖天堂には年齢からして参加してないと思いますが、菅原神社には聖天堂の唐子が多く使われています。