桐生天満宮と上州の彫物大工

 桐生天満宮は令和5年に国の重要文化財に指定されました。詳しくは「桐生天満宮と上州の彫物大工」のまでお願いします。お求めは本をクリック、アマゾンでも購入できます。


 令和5年、「神社建築の装飾化が最も発達した段階で精緻な彫刻と彩色で埋め尽くされた建築彫刻の発達と工匠の高い技術を示している。江戸時代後期の北関東を代表する神社建築の一つである」とのことで国の重要文化財財に指定されました。本書は誰にでも分かるように詳しく建物を説明すると共に、彫刻の魅力や秘密を紹介しています。

天満宮には、超絶技巧の優れた神社彫刻である「末社機神神社(はたがみじんじゃ)」が附として重文に指定されました。

 普段は覆屋の中でガラス腰でしか見られませんが、たまには開放されるときもあります。

 ここにはなんと黒保根の栗生神社の関口文治郎が彫った「朝鮮通信使の唐子」と同じモチーフの「朝鮮通信使」が星野政八の彫った作品として見られます。

 朝鮮通信使とは縁も所縁もあるとは思いもせんが、ここには、彫ってあるのです。

胴羽目の二十四孝の「孟宗」にはなんとユルキャラの様な妖怪?が彫られている。他にも「楊香」の後ろは父なのか母なのか。「あっかんべーをした獅子舞」は何なのか。「三匹のニャンコ」とは、「階(きざはし)を登る麒麟、」「妻飾りの獅子の親子」。彫物大工(彫工)文治郎作品の魅力を初期の医光寺の欄間彫刻(二十四孝)晩期の栗生神社の唐子(朝鮮通信使)と共に紹介。
 本殿・幣殿は彫刻で飾られているのに、拝殿はなぜ質素なのか。原画より規模が大きくなっているのはなぜか・・・。桜島の噴火、さらに浅間の大噴火、それらと桐生の歴史の中で揺れ動いた天満宮の建設。
 日光東照宮の寛永の大増替(1636年)に始まる寺社建築の装飾化。その中で生まれた彫物大工(彫工)の活躍。寺社彫刻歴史の中で、中心的役割を果たした石原吟八郎とその弟子の関口文治郎、星野政八、その最高傑作の一つの「桐生天満宮と機神神社」を、建物の工匠として「関口文治郎やその盟友星野政八」の関係を「二十四孝や唐子遊び」の彫刻から紐を解いてみました。