上州の甚五郎 関口文治郎

  文治郎は享保16年(1731上州の上田沢に生まれた。少年時代 に花輪初代石原吟八郎の弟子となった・・・とある。

 武州妻沼聖天堂の造営にあたって師匠を手伝い、宝暦2年(1752)聖天堂の完成には仕手としての立場ではあるが、師匠の片腕となるほどの技術を高め、納得のできる物であり、在所の観音堂に大願成就の願を果たして半鐘を寄進した。文治郎22歳の時である。

これは平成9年 黒保根村村誌(以下村誌とする)による記述であり、宝暦6年(1756)を幣殿の彫刻年とし、彫物棟梁代行。宝暦10年を拝殿の彫刻年とし、彫物棟梁とある。

 医光寺についてはこれより少し先昭和63年の村誌別巻3 黒保根の民家・社寺建築(以下別巻とする)詳しく書いて有る。

 それによると医光寺の上棟は棟札により延享4年(1747)須弥壇は寛延4年(1751)欄間彫刻は宝暦3年(1753)六月とある。これによると聖天堂には参加できないことになる。半鐘の寄進欄間彫刻完成とした方が自然である。

 聖天堂は本殿の上棟は寛保元年(1741)本殿完成が延享元年(1745)であることがはっきりしている。本殿の上棟時文治郎は10歳である。絵を描くような仕事ではなく鑿と玄能で木を彫るのである。

 これでは文治郎が参加することは不可能である。寛保2年利根川の下流域で大規模な洪水が発生し、幣拝殿の工事がいったん中止になる。再開は宝暦5年(1755)であることから、本殿完成の10年後という事になる、もし中止にならなかったら続けて建てたであろうと思われることから、木材関係の下拵えは終わっていたと思われる。でなければ、大工も彫工も別の工事に掛かれるはずはなく、再開後わずかな時間で上棟、完成まで出来るはずはない。


 文治郎の最初の棟梁としての出世作は伊那長谷村の熱田神宮(1762)で星野政八・大塚三治郎・福田助治 郎の他倅の松治郎の名も見えます。こちらの大工棟梁は林正信の系列になる地元の池上善八郎です。面識はなかったと思いますが、三峰神社の時に紹介されたのではないかと思われます。

 又、のちに桐生の天満宮を手掛けることになりますが、この時の町田大工も林兵庫の系列で文治郎の最初の作品と思われる医光院の建設に携わっていることから、紹介があったとも考えられます。

 熱田神宮は伊那の日光といわれるほどでその茅葺の覆屋共、重文に相応しい出来栄えです。文治郎とその一門の腕が認め られた形で、その後の礎になったものと思われます。  

  この頃は文治郎の所の門人も年も経験も不明ですが皆一人前の職人として仕上がっていると思われる所から他に師匠となるべき人がいたことも考えられます。それが吟八郎とも考えられますが、別にいたことも否定できません。確かに熱田神宮は聖天堂と同じ題材を入れていますが、同じ人もしくは師匠や兄弟子の指導があった作品とは色彩の違いがあるとは言え、別人の作にしか思えません。文治郎達はのち に桐生の天満宮を手掛けますがこちらの方が似ています。

  聖天堂の唐子は吟八郎の青蓮寺や政八の倅の慶助、文蔵の倅の金蔵、二代常八の雷電神社、冠稲荷等 多くの作品に見られます。それらと比べると一目瞭然です。  医光院の裏に薬師堂があり、正徳五年(1715)の建立とあります。本堂より古く、彫刻(次頁の蟇股の虎) も施してあります。彫刻師は、高松又八が翌年に亡くなっている所やそれほど大きな仕事ではないことからからして、又八の弟子の内一人の仕事と思われます。また場所からして又八系以外の職人は考えられません。

  すると吟八郎であるとも考えられますが、資料によると又八の弟子に田沢与兵衛邦保という人物がいます、荻原産となっていますが、黒保根には上田沢と下田沢があり、単に田沢というと両所を合わせた場合でなく上田沢地区の事を言います。沼田から花輪に行くときは田沢から山を越え、荻原、花輪となり 亦八が通る道筋である所から弟子になっても不思議のない場所です

 すると名前からしても田沢与兵衛邦保という人物 の可能性が出てきました。 田沢与兵衛の場合残されている作品が少なく特定することはまず無理ですが、可能性は大いにあります。 
 薬師堂は文治郎ともなじみの深い医光院にあり、与兵衛が仕上げた作品であるとしたら文治郎の師匠は 田沢与兵衛邦保の可能性があります。 田沢与兵衛は「彫工左氏後藤氏世系図」(国立博物館蔵)には載っていますが、説明的な資料は見つかりませんでした。

 また時代は下がりますが文治郎の門下 の並木(福田)源次郎は粕川の千手院本堂の欄間の裏に「公儀彫物師 高松又八邦教 末流」(1802)の墨書を残 しました。吟八郎の名も文治郎の名もありません、直接の弟子でないことは年からして明らかですし、 源次郎の出は医光院のある涌丸で、並木(福田)助次郎は親であると思われます。

  私はこれには田沢の地が大いに関係していると思います。まず文治郎の生まれた地は上田沢の沢入(サワイ リ)地区であかがね街道の沢入(ソウリ)とは全く別の場所です。上田沢地区から花輪に出る道は五覧田 城祉の北の山越えか奥の山を越えて小中にでるしかなく陸の孤島に近い状態で他地区との交流の少ない 場所と思ってください。


  当時沼田からの道は鹿角地区から涌丸を経て上田沢に入り北の山道を超え荻原、花輪。同じく鹿角から清水・関守を経て荻原、花輪に出る道しかありませんでした。そこで北の関が上田沢地区。南の関は関守地区で、関守地区は当時から小黒川に橋が架かっていて村内のメイン道路として、また前期のあか がね街道としても利用されていました。

   文治郎 10 歳の頃聖天堂の工事は一時中断されましたから吟八郎の弟子も仕事が終わりました、この中 で一部はその後も仕事が続きましたが中には無くなったものもいたはずです。当時一人前として独立しても仕事は高松又八と吟八郎の石原家を通じてくるのではないでしょうか、すると上田沢の小倉弥八や大塚三次郎、涌丸の並木源次郎達には廻って来る可能性は低くなります。彼らは自分の名前で仕事が来れば問題ないのですがそれができないとなると地元の名士に頼ることになるのではないでしょうか。文治郎の関口家は地区の名家で地侍とか武士の系統かもしれません。

 医光院の棟札に名前を載せた、との 言伝えができるくらいです。若くして欄間彫刻を仕上げ、宝暦二年の梵鐘の奉納も出来たりします。 彫刻を独自に請け負うには腕はもちろんですが、名家である事も案外重要な要素になります。そこで田沢与兵衛が中心になり文治郎を核にして、荻原村や田沢地区の若者を集めて田沢彫刻集団を作ったと しても不思議なことはありません。 こうして文治郎を棟梁として田沢の彫刻師集団を形成して、一代勢力を形成することになります。  

 当初から初代吟八郎を継いだ前原藤次郎や初代の石原常八を継いだ松島文蔵は、むしろ文治郎を応援している形跡があります。この二人の工房は荻原村で田沢とは花輪より近い、また文蔵の倅の金蔵は田沢の尾池伝治郎の所に婿養子に行った形跡があります。

 同じく荻原村の星野政八も文治郎からみると少し年は 若いようですが、同じころ修行し兄弟弟子のような感じで文治郎を応援している可能性もあります。文治郎はその後も桐生の天満宮や榛名神社栗生神社等文化財に指定されている多くの作品を手掛けています。特に天満宮は、国宝になった聖天宮をしのぐものがあり、身舎の丸柱の彫刻は他の建物には見られない豪華さがあります。また、天満宮には聖天堂と同じモチーフの作品が多くあり、田沢の彫刻集 団も聖天堂から学び、中には参加していたものが居たかもしれません。

 直接初代吟八郎の指導を受けていなくも、高松・石原流の一部であることは間違いなく文次郎の才能はそれらの中で大きく開花しました。文治郎の作風は榛名神社の彫刻にも見られるように、二代目常八の作風と共に三代目の常八や岸亦八、弥勒寺音八、等に受け継がれ、完成された幕末の作品になってい きます。


 田島峠の場所

 田島峠の場所が分かりました。現在道はありませんが、戦後間もない頃まで利用されていたそうで、ご年配の方が子供の頃、花輪の大黒屋まで教科書を買いに行った覚えがあるといってました。

 地図からすると山道より登山道の方が近く、だいぶ急なようですが、おそらく一時間半くらいから二時間くらいで通えたのではないでしょうか。文治郎の生家では文治郎が田島峠で追剥ぎに出会った話が残されています。

 下の地図を参照してください、当時のあかがね街道と花輪関係も含めて載せておきました、田島峠の場所は地元の方にお聞きしました。赤の道はあかがね街道、緑は当時の街道と思ってください。