高松又八郎邦教
花輪の祥禅寺の墓誌には「俗名高松又八」と書いてあり、「上州沼田産、神田九軒丁住彫物師」とあるという事です。祥禅寺に残る過去帳によると、父は蜷川佐右衛門で当時の沼田城主 真田昌幸に使ていた武士で、負傷したため山を隔てた花輪村に引き籠ったと伝えられており、今も祥禅寺再興の祖として崇敬されているそうです。
この佐右衛門の一子「蜷川佐平太」が左甚五郎の系列になる名工「島村俊元」の弟子となって、本流を受け継いだのである。又八は又八郎邦教とか単に又八郎または亦八と名乗っていますが、蜷川家は室町から続く名門である、武士を捨てて彫り物師としての腕を認められ、師の島村俊元から与えられたのか、幕府の御用彫師として賜ったのか、なぜ蜷川の姓から「高松」を名のったのか定かではありません。しかし過去帳によると蜷川佐平太が高松又八で有ることは間違いないという事です。
江戸も初期の頃は日本において寺社彫刻は施されておらず、白木造りのシンプルな物が多かった。これが三代将軍家光の代(1620ころ)になり東照宮の造営に伴って装飾の為の彫刻がほどこされるとともに、美しく彩色され、建物も和風から唐風、権現造りへと移り変わってきた。この様な風潮のなか彫刻は目覚ましく発達し、さらに、江戸の中期、妻沼の聖天堂(1750年頃)より一般の寺社にも彫刻が広っていった。その波に乗ったのが高松又八であり、花輪の彫物師達であった。
この高松又八。残されている作品が少なく、部分的に残されているくらいで、残されているのは千葉県のいすみ市の行元寺の欄間彫刻に墨書が残されているのと、日光の大猷院と御霊やに残っているそうです。
残された中に比較的はっきりしている物には桐生の大雄院の須弥壇(1699)があり、武陵府九軒町 高松
又八郎邦教の銘があります。従って、この頃より江戸の仕事は二代目を中心とし、自らの仕事は花輪を
中心としたとも考えられます。
鳳仙寺の山門(上の写真)は大雄院から五年後、宝永元年(1704)に建てられたとの見方が強くなりまし
た。同時代であるなら寺院の格としても又八の作である可能性が高くなります。勿論出来栄えにしても
何ら遜色もなく又八郎の作品として相応しいものです。