水窪ルートの関守橋の側にあるのが薬師堂跡です、当時はここに関守橋はありませんでしたから水窪ルートがいかに古くから使われていたが分る場所です。今はここから先は県道に出る手前まで痕跡はありませんしかしあったことははっきり分る場所です。
黒保根の上田沢地区はあかがねの道からは外れています。しかし関東の左甚五郎と云われ国宝の妻沼の聖天宮を手掛けた関口文治郎の工房があった所であるから外す訳にはいきません。
関口文治郎は花輪彫刻集団の開祖の高松邦教の門人の石原吟八の門人で二代常八と同門となります。
文治郎の作品は秩父の三峰神社、桐生の天満宮、榛名神社などに優れた作品を数多く残しています。
湧丸の医光院には彼の残した欄間飾りと共に墓もあり、栗生神社の本殿にも彼の作品が残されています。
(その後の調査で聖天宮は文治郎の作品で作品なく石原吟八郎を中心とした花輪の彫刻師集団ということがわかりましたが文治郎の作品が優れていることは間違いありません)
清水観音堂は明治初期に上田沢の医光院に併合され廃寺となり、跡地には観音堂のみ残っています、尚境内には寛永三年などと銘のある石造物が多く残されています。
清水地域区は下田沢村の一部でここから舗道もありますが街道は林の中を通っていたようで庚申塔等が有りました。道なりに進むと先ほどの舗装された道に出ます、この道はそのまま進むと赤城の撹満淵に続いて、沼田・根利道にも続いています。もちろん村内の東西を結ぶ重要な役割をもっていたことも当然のことであかがね街道としてよりも生活道路として重要な役割をもっていたものと考えられます。
さて道をさらに進むと左に道標、右に茶堂(e08)が有ります。村史ではここで弘法大師が休んだとの伝説が残っているようです。ちょっと変わったお堂でそばには青面金剛の石碑があります。ここを過ぎると前原橋を渡りますが実はこの橋一つ上と一緒に架け替えたのですがその時に橋名を入れ違いてしまい、一つ上の橋が茶堂橋となってしまったようです。
清水ルートから前期ルートは(絵図)の中の下田沢村の各地域を結ぶ生活道を利用していました。
したがって後記ルートが出来ても、また足尾線が開通し銅山街道の役割が終わっても利用されていた様でその痕跡が残っていて、街道の雰囲気が今でも残っています。
ただし、部分的には痕跡が無くなっている所もあるので十分注意してください。
下田沢の赤城神社には安永五年の双体道祖神を初め多くの石碑が残されている。
神社は小高い丘の上にありますが向かいに老人保養センターがあり、沢に下る道が有りますからこれが街道の痕跡となります。沢筋を下る様な感じで進むと南雲川が在り、橋(e10)が架かっています。
橋を渡ってそのまま進みます左に馬頭観音があり、広い所に出てます。そこには舗装された道が有ります。ここは舗装道路に惑わされないように右手の林に沿うと気勝沢川があって木造の橋(e12)が架かってます。橋を渡ると突き当りのT字路で右に上った道は昔の根利道です。
ここで左に曲がり沢沿いを下って行きます、すると幾分開けた所に出てここに住宅が二軒あります。どちらもそれほど古い家ではありません。
黒保根のあかがね街道には多くの謎が秘められていて、この謎を解くカギがこの名主宅です。
古くにあたって水沼から津久瀬にかけては渡良瀬の流域が常に移動する沼地状態で、断崖が川辺まで迫り、道を開くのが困難であったためと考えられていてました。
後期の道といえる街道が開かれたのは、水沼村の分限者星野七郎右衛門が現れてからといわれてます。指導者と幕府とのかかわりがいがあり、急速に街道の整備が進んだと思われるからであるといわれてます。
しかし、星野七郎右衛門が吹所世話役についたのが文化十三年(1816)であるが、(絵図)にはハッキリと小黒川河口の橋と水沼の通りが描かれています。
絵図が描かれたのは文化三年(1806)世話役に付く十年前です。ということは世話役に付く十年前には後期街道が出来ていたことになります。
更に万年橋からほぼ中間の今の関守橋の所の薬師堂の地蔵菩薩座像(e01-1)は寛政三年(1791)そばの青面金剛(e01-3)は天明三年(1783)の記入があり、なんと三十三年前となります。とすると後期街道の開設はそれより前となりますが、実はそうとは限りません。水沼地区は黒保根の中心である事は間違いないと思いますが他地域に行く道はどれも人が通るのがやっとの状態の山道になり、それも多くはなく陸の孤島の様な地形だったと思われます。
先ほどの星野七郎右衛門は「中世的系譜は水沼村字関守に住んだ刀鍛冶」との伝承をもっているそうです。ここの関守が荻原の関守はどうかは分かりませんが刀鍛冶と云うからには五覧田城とも関係が深く、その頃から水窪ルートがあったとしても何の不思議もないことと思います。
また水沼から津久瀬地区には川沿いで行けますが、津久瀬からは前田原にでてそこから南雲沢を渡り地図e12地点に行かないと川口地区には行けません。そこで後記ルートを整備したものと思われまます。水沼地区は単に黒保根地区だけでなくあかがね街道沿いの多くの村に影響を与えていました。陸の孤島の様な場所では具合が悪いですよね。
国道122号線は津久瀬地区で沼田に向かう県道62号線が坂の上へと別れている。
かつて水沼から来た道は江戸川に阻まれ先には進めなかったようです、江戸川を遡って前田原地区に出てそこから城下り地区に向かってました。
水沼と山間部の下田沢の各地区を結ぶこの地はそれなりにの地区としての役割がありました。山際にある津久瀬稲荷の本殿は小さいながらもその装飾は観る物があり当時の生活を垣間見ることができます。
この地にあかがね街道が通ったの詳しく分かっていません。しかし絵図にははっきり描かれている所からすると18世紀の後半と見られます。
当時は県道や国道はありませんから直接地区内に入って来ましたその踏み跡は今も残されています。村の中を通り水抜き橋と描かれた所を渡り少し上流に上がってから大きく右折して南雲沢方面に向かってます。
これからすると今の江戸川橋より少し上流を渡ってから県道の場所に出て、道の駅の上の道が後期ルートとして開発されたのかも知れませんね。ただし、星野七郎右衛門が世話役に着く前の話しです。
後記ルートと前期ルートは城下りトンネルの上の方で合流します。合流して降りた所が川口集落です。川口の集落はこれより奥には人家が無く行き止まり、だったそうです。
沼田方面に行く街道は前期街道を気勝沢沿いに上りe12の橋を渡らずにそのまま真っ直ぐ行きました。神梅方面には今はトンネル脇に出る道がありますが、これは新しく作った道です。
絵図ではこの先城下(川口)地区に入り、城下川を渡りますが城下川は現在は川口川に名称をかえています。絵図の城下川土橋は渡良瀬より一丁半とあるので距離で165mほどの所に橋があったことになります。
ここ川口地区には川に降りる道の痕跡(e25-2)が有りますから途中までは下れます。しかし途中でなくなり、村史では「馬橋」と呼ばれていた橋は有りません。
馬橋を渡ると川口道まで登りますが、この川口道はもっと当初は低い所に有り、ここに神亀石(e27)といわれる亀の形をした大きな石が有りました。この石は道が上がり埋まってしまうので現在は下田沢の方に移動したそうです。
あかがね街道とは少し離れているが重要な場所が深沢城址です。
深沢城は、別名神梅城・神梅の寄居とも呼ばれ、黒川谷(渡良瀬川の渓谷)に平安末頃から土着したという由来を持つ阿久沢氏の居城でした。
城跡の状態も残されている数少ない城跡です。北側にある円正寺は阿久沢氏の菩提寺です。
天正18年上杉・北条氏の滅亡と共に廃城となり阿久沢氏は帰農しました。
天台宗円正寺は東方300mの地塔の越にあったが廃城後ここに移されました。
その側に在ったのが諏訪神社で芭蕉の句碑が残されています。句碑には 「鴬や柳の後薮の前」・・はせを・・ とあります。建碑は明治二十八年四月となっています。
城の入り口の所にある石幢(庚申供養)は六地蔵尊を龕部に彫り、幢身には輪廻の痕跡があり、信仰上重要な意義をもつものと思われます。また造立者に松井備後守 夫婦年号も丁寧に記されていることから歴史遺物としても貴重なものです。
渡良瀬左岸の大畑ルートから来た道は、荻原の広瀬の渡しから来た道と合流し、八木原村に入ります。(県資道)は八木原手前で消えていて、その代わりに水沼から五月橋を渡って来た道が奈良坂に続いています。(絵図)の説明ではこの辺に渡船があったとの説明もありました。
(県資道)では、奈良坂と呼ばれる道で山を回る様な具合で峠に続きます。
峠の丘の上に天保5年の青面金剛が有ります、注意しないと見えませんからご注意ください。
ここから道は下りになり道なりに進むと塩沢の里になります。
しかし、村史によると塩沢地区が明治22年に黒保根村になったので、奈良坂峠を明治中期に開削した峠とのことです。
とすると、奈良坂は新道で明治中期に造ったことになります。ではあかがね街道として使った街道はということになります。
同じく村史では桑の代の地区を通り十二社の所から峠に向かったと有り、峠には確かに桑の代に向かうと思われる道があります。
桑の代の地区に十二神社(e33)があります。ここの神社は小さいですが本殿屋根は杮葺きで彫刻も優れていて、当時の隆盛ぶりが偲ばせます。十二神社は道から少し離れた高台にありますがこの道は神社を越えて八木原方面に向かっています。
神社から地区内を抜けて峠の方に行く道もはっきりのこっています。