二代目石原吟八明義のことはよくわかっていません、名前にしても義明で載っているのもあります。東村誌には名前こそ載っていますが、その紹介となると高松又八の次は石原三代となり、初代吟八も二代も載っていないのが現状です。
平成入って間もない頃、太田の冠稲荷で改修工事が行われ、その時に飯田仙之助の墨書が発見されました。そこにはなんと吟八郎義武と吟八郎明義の二人の名前が出てきたのです。実はこの時に初めて二代目の存在が明確になりました。従って「義明」の名は間違いです。
二代目の存在が明確になり、今まで分からなかったことが分かり、調査が進むのと同時に新たな疑問も出てきました。
初代の亡くなったのは明和4年(1768)ですが、明和七年(1770)前橋の日輪寺本堂に吟八の名前が出てきました。今ではそれが二代目ではないかといわれています。
次に出てくるのは桐生の長泉寺になります右と上の写真がそれです、前頁の初代吟八の青蓮寺の龍(1744)と比べてください、似ているとは思いますが同一人物であるとは断言できないと思います、長泉寺の作品は安永元年(1772)といわれていますがはっきり時代を特定するものはありませんでした。
青蓮寺の龍の裏には墨書で名前と年号も入っています、しかしこの長泉寺の彫刻の裏には墨書きでなく名前が彫ってあり、「右三枚 石原吟八 彫之」とあります。すると二代目という可能性が高くなりますがその左に「板橋伊平次」の名が彫ってありました。
板橋伊平次は高松又八の弟子で初代の吟八とは兄弟弟子ということになります、するとこれは初代の作品ということになりますが名前の書き方が引っ掛かります。ここ長泉寺は高松又八のではないかと思われれる山門がある鳳仙寺の松寺で青蓮寺ともごく近くにあり、どちらかということは間違いありません。
もしこれが二代目の作品とすると板橋伊平次がその力量を認め、二代目として認められるものでなければならないと思います。
であるとすると初代の右腕とされた前原藤次郎しか該当する人物はいないことになります。証拠なんてありませんし、吟八を名乗ってる時も藤次郎としてのしての作品を残していることからはっきりとは言えませんが、今までの研究者の多くの方が認め他の候補がいないことからもほぼ町がおないのではないでしょうか。
初代吟八郎に跡継ぎがいないので、もし文治郎が聖天堂で師の代わりをしたのであれば二代目を継ぐのが順当でしょうが、それが偽りとなると、聖天堂でもその後でも右腕と称される人物でなければなりません。すると前原藤次郎しか該当する人物はいないことになります。証拠なんてありません。
しかし、宝暦 11 年(1761)の三峰神社の時は初代も二代目としての吟八郎の名はなく、三峰神社造営記録には「彫物師 東上州花輪村 藤次」と書かれています。この時には藤次郎の倅と共に田沢の文治郎一党も引き連れて行っています。
初代吟八は(1757)高崎の八幡宮を最後に名前は出てくることなく(1767)に亡くなっています。もしこの時二代目がいるならはっきり出すと思いますが、出ていません。此の後も藤次郎の名がある所に吟八郎の名はなく、吟八郎の名がある所に藤次郎の名はありません。
二代目は初代の倅ではないかとの見方もありますが、それらしき形跡は前にも後にも全くなく。無理があり、二代目は藤次郎以外の人物は考えられず、今までの研究者の多くの方が認め他の候補がいないことからもほぼ間違いないのではないでしょうか。