石原常八主信

二代目 石原常八主信

  江戸時代中期、高松又八によって撒かれ種は石原吟八郎等によって育てられ、石原三代によって大きく花が開きました。特に二代目常八は優れた作品を多く制作したことから「房州の波の伊八こと武志伊八、明治期、宮中賢所に菊の御紋章を彫った弥勒寺音八と共に名工三八」と呼ばれる名彫物師となっています。

   上州花輪村で天明五年(1786)に生まれ、文久三年(1863)77 歳で亡くなっていています。墓は高松 又八や初代吟八やその後の子孫と共に祥禅寺に眠っています。(東村誌より)。

   二代目の出世作は栃木の野木神社、(1819) 33 歳の時といわれている。当時としてはいささか遅い出 世作ではなかろうか、しかもこの時には8年前に亡くなった星野政八や絵師として活躍していた星野慶助の名も棟札に載っている。東村誌ではそうなっているが実際にはもう少し早く手掛けたもの伝わって いるという。


 それによると(1803)埼玉ときがわ町の慈光院観音堂です 17 歳の時ですが棟札等は残って いないらしい。その後にも数件手掛けているようです。  野木神社の大工棟梁が林兵庫の流れをくむ、三村和泉守藤原治朝でこの後、板倉町の雷電神社をはじめとして次の代までも多くの作品を手掛けることになります。羽生の三村家は熊谷の林家とは関係が深 く、聖天堂の林正清から五代目の正道は三村家から養子に行っています。

 幼いころに宗家を継ぐことになった二代常八にも指導者や後見人は必要です。二代目の吟八や初代常八は修行の頃は亡くなっている年齢なので無理です。文蔵の倅金蔵も考えられますが田沢の地ではできません。考えられるのは実の父親と星野政八・慶助親子です、実の父親が若く、十分な指導ができない状態であれば星野親子に頼ることが大きかったと思われ、それが野木神社の棟札になったのではないでしょうか。文治郎が聖天堂で活躍したのなら、この頃何らかの形で 名前が出ないのはおかしいですよね。 33 歳の時に手掛けた板倉雷電神社の本殿は初代常八が亡くなってからだいぶたってのことである。い くら先々代からの関係があるとはいえ、そう簡単に名門の大工からの仕事が回ってくるのは不自然です。

 野木神社を手掛ける4年前、飯田仙之助が太田の冠稲荷を手掛けている。仙之助の飯田家は大工の名門で大隅流林家ともつながりがあるので、羽生の三村家とも親交がある事は明白です。通常であれば仙之助が手掛けてもおかしくない、勿論親子関係は別にして師匠筋の事であればそのようにすると思うの で、親子であることを証明することにはならないのですが武州の方面の仕事が多いのは事実です。 東村誌によると二代目常八の作品は地元には少なく小中(こなか)の大蒼院に残されているくらいと いう。

 大蒼院とその傍にある鳥海神社は、前 9 年の役(1062 年)安倍宗任の伝説が伝わっていて、この地 区の松島氏はその子孫ではないかといわれています。

 前原藤次郎の弟子の松島親子はここの出身である 可能性が高い。二代常八の作品は 東地区には少ないが埼玉や群馬東部から東関東にかけて多く残されている。  (1851)になると妻沼聖天堂の貴総門を手掛けることになる。

 この時の大工が林兵庫正清の五代目の林正 道で野木神社の時の棟梁三村家から養子になった昌道です。貴総門の棟札には当時 40 歳の三代目石原常 八の名もあり、天保年間(1830)の初めころから二代目石原常八家と大工棟梁三村家とのかかわりが強くな りその後に繋がっています。(1847)の大間々の光栄寺もその一つです。これほど人気のあった常八ですが、 経済的に恵まれていなかったのか商習慣かわかりませんが、新里村新川の善性寺の時の前受け金の証文 が残っているようです。   最晩年は桐生の浄運寺の欄間彫刻を手掛けたようで完成された美しさがあります。浄運寺の前机には三代目石原常八の名前の他に倅の改之助、弟の鶴次郎の名彫られています。