前原藤次郎と松島文蔵

  藤次郎は「藤次郎直賢」と名乗っているが場合によっては「東次郎とか東治郎」とも名乗っているようです。出生は東村村史では花輪になっていますが実際に活躍した場所は隣の荻原地区になっています。
 出生年や没年は分かってなく不明です。しかし弟子として名前の残っている松島文蔵が初代常八とし、 同年代として換算すると聖天堂を本格着手した(1735)に 18 歳、奥の殿の上棟の頃は 24 歳となります。 また弟子として名を遺した江南諏訪神社では 29 歳です。

   この後名が出てくるのが(1761)大滝村の三峰神社です。この時 44 歳、倅の兵蔵の名も見られますが 年からも矛盾するところはありません。師匠の初代吟八はこの6年後に亡くなりますからこの時は師匠の代理ともみられます。三峰神社の宮大工は聖天堂の時の林兵庫正清の二代目正信です。この時に関口文治郎、星野政八、大塚三次郎、小倉弥八、並木助次郎と、初期の田沢の彫刻師集団を形成した者たち も参加しています。

  文治郎達を正信に紹介したのはこの時ではないでしょうか。  この中の関口文治郎、大塚三次郎、小倉弥八は上田沢村で藤次郎と星野政八は荻原村です。上田沢から花輪に出るには山を越え荻原村に入りその隣になります。


 通えない距離ではありませんが通うのは大変であることは間違いありません。しかし、その後の交流関係からしても、深い繋がりがあった頃が想 像できます。   藤次郎の生まれは年がわかっている松島文蔵(石原常八とした場合)から推測すると、もう少し上で ある可能性が高い。その後下仁田の清泉寺(1775)では 文蔵と金蔵の名前が出てきますがこのとき文蔵は 58 歳、金蔵は倅の可能性が高いですよね。

  初代吟八が亡くなって最初の作品は太田の冠稲荷 (1767)です。この時の墨書には他に小倉弥八・前原兵 蔵・松島文蔵の名はありますが、金蔵の名はありません。次には前橋の日輪寺に本堂に二代吟八の名がある 様ですが他の名は不明でした。長泉寺(1872)は前の 通り吟八と板橋伊平次です。(1775)には下仁田の清泉 寺に小倉弥八と共に星野政八・松島文蔵・同金蔵・星 野一郎左衛門とあり、この時は藤次郎の名も吟八の名もありません。横瀬神社(1778)(写真左)は 61 歳 の頃倅の半十郎、兵蔵、それに松島文蔵・金蔵の親子です。 藤次郎と文蔵が別々に仕事をしている所がある事からも、文蔵は単なる弟子でなく共同経営者的役割 があったことも考えられます。  次に吟八郎の名が出るのが(1782)前橋日輪寺の欄間です。吟八としての名は(1784)玉村の養明寺の欄 間・(1785)高崎専福寺の欄間と続き、(1786)二代常八が生まれた後は全く出なくなります。

  前原藤次郎としての最後の作品は桶川の専福寺になります、ここに倅半十郎・兵蔵と共に松島文蔵・ 同金蔵の名があります、前原の倅たち、および松島親子もこの名前としては最後です。  出生は藤次郎が荻原とわかっていますが文蔵は分かりません。しかし前に書いた通り、花輪から渡良瀬川を少し登り対岸に渡ったところが小夜戸になりそこをさらに上ったところに松島地区があります。
 地区の方は松島の名字を名乗っている方が多いことからそこの出身ということが想像できます。松島地区からは通えない距離ではありませんが通うのは大変で荻原の藤次郎から一緒に独立しないかと誘われ れば二つ返事で参加ということは容易に想像つきます。   前原藤次郎がなぜ二つの名前を使ったか、ここからは全くの想像になりますが、初代吟八郎が亡くな った時、孫が10歳くらいしたどうします。真剣に指導して吟八郎の技術を伝承したいとは思いませんか、 本人としては名乗る気はなかったのかもしれません、名乗ることはしなくも仕事の続きで名のらないとならない場合に使い、やむを得ず二つの名を使った ような気がします。