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       みどり市観光ガイドの会


深沢ルート(角地蔵・深沢宿)

 深沢ルートの深沢宿は継立になっていませんがあかがね街道の重要な宿場でした。一つは深沢川が渡れない時の宿場です、この場合銅の運搬は関係ありませんがそのほかの資材・生活用品等の物資は深沢川対岸の宿廻りとともに重要な拠点にもなっていました。

 神梅のあかがね街道は街道として利用している時は右岸には他の道が無く、明治になってからは川沿いに国道が造られたので比較的良い状態での残っています。

 黒保根の橋からの踏み跡を出ると角地蔵があります。

 角地蔵(f02)は、宝暦2年(1752)に正円寺28世盈仙和尚が、天正7年の合戦でなくなった戦士を弔うための地蔵堂建立のため各村に行脚し浄財を集め、石工を招き仏像を彫らせていた。

 たまたま不思議なことばかり起こるので、頭部が完成されず石工が逃げ出したという逸話も残されています。

 このことについて天明の頃、高山彦九郎が深沢宿を通った時の日記に、「石工に申付けたるに石工価にあたらて半途にして逃げたりといふ。」と書いてある。土地の人は寸法ちがいで出来ず「間違い地蔵」と呼んでいる。(みどり市 HPより抜粋)

深沢宿の奥には明治40年に六つの神社を合わせた六合神社が有ります。

 六合神社には拝殿と覆屋があり、覆屋の中には本殿と脇社を安置してます。本殿の建築様式は三間社流造りの屋根正面に唐破風を付けたもので、「流れ権現破風造り」とも呼ばれています。彫刻も優れたものがあり、年代を示す物はありませんが18世紀中頃(江戸中期)の物ではないかと云われています。(大間々町誌より)

 深沢宿は、ほぼ一直線に下っていて、昭和初期の火災で強風にあおられ古い家屋は消滅してしまいましたが石仏や石碑等(f03-2,3)には当時の面影を残しています。   

深沢ルート(覚成寺)

その中でも覚成寺(f08)は面白い伝承が残っていたり、珍しい遺物もあります。

 その一つは境内に天海大僧正の御座石なるものがあります。

 この石は上人さんがこの辺を旅した時、日光坂を下りた周辺で足をくじいて休んだそうです。

 上人さんはこの時乞食坊主に身をやつして家康公の分骨を日光に運ぶ途中だったいうことです。豊臣の残党の目を欺き、本体は煌びやかに日光街道本道を宇都宮から日光へ向かわせ、本物は川越喜多院から熊谷・深谷、利根川を越えて世良田(後に東照宮が出来る)から後にあかがね街道となる道を北上して桐原からヒウチ坂を登り日光坂を下って神梅の覚成寺まで来たといいます。

 この坂の名は天海上人に因んでつけたと伝えられています。

 上人さんは覚成寺に一夜の泊を願いでた所、山海の珍味で歓待されいたく感激して素性をあかし、遺骨と共に奉持する「家康公御本守本尊 北辰妙見大菩薩(f08-6)」と純金の「独鈷」を下賜されたとのことです。このうち純金の独鈷は盗難にあったか紛失したのか、売却かあるいは初めから無かったのか、真相は分かりませんが行方は分からなくなっていますが北辰妙見大菩薩は大切に保管されておます。

天海上人が家康公の遺骨を運んだという話は荻原の善雄寺(d17)にも残されています

 

二つ目は、家の前に石で造られた箱状の物(2.0m0.6m位)があり、かつての石棺かはたまたあかがね街道の馬の水飲み場だったのではないかと思案しています。

  三つ目は、(絵図)には覚成院の左に薬師堂があります、そこの御本尊の薬師如来坐像(f08-5)、本来古い物ですが金で修復しました、その時下に敷いていた板から墨書きが発見され、そこにはなんと「運慶作」と書かれています。もし本物なら国宝級?・・・金で修復したのが悔やまれます。

  四つ目は、最大の秘密で本殿の向拝の蟇股に猫の彫物(f08-4)があります、これはあの左甚五郎が眠り猫の原型としてここで練習したとの口伝があります。あの左甚五郎はおそらく日光街道を利用したでしょうから、信憑性は薄れますが、上州の左甚五郎といわれた関口文次郎なら大いに可能性があり本物なら重要文化財クラスです。

 

 また神梅神社もその彫刻は優れたもので街道のすくれた彫刻の一つとして見るべきものが有ります。

深沢ルート(神梅神社)

  神梅神社は絵図では神明と書かれています。長い石段を登ると境内広場に出て右に拝殿と覆屋が見え覆屋の中には本殿が安置されています。

 本殿は一間社流れ造りで、壁面や小壁等を高肉透かし彫り彫刻で覆い、一段と豪華な意匠に仕上げています。

 また内陣の床板裏に「安永四年(1775)の年号と江戸神田通新石町 細工人宮本元右衛門」の墨書が残されていたということで、時代の特定ができました。しかし宮本元右衛門なる人物に関しては解らないことが多く、花輪の彫刻家集団あとの関係の有無等不明のままです。(大間々町誌より)しかし花輪の彫刻集団の祖の高松那教亦八は江戸神田九軒町在とあり、その弟子には黒門町在や紺屋町在となってる方もいます、何かあっても不思議はないですよね。

神梅のあかがね道はトモエ加工の工場の辺りより国道に入り、その先大釜の所から再び山道となり日光坂の道に通じています。

 日光坂より手振り山の中腹を廻れば街道の山間部は終わり、桐原からの平野部に入っていきます。

 


塩沢ルート(庚申塔)

  昭和33年まで塩沢地区は黒保根村でしたから明治の新道開発の時八木沢から来た道と一緒に開発された新道があります。

 ですから新道がはっきりしてます、しかし旧道は痕跡や踏み跡程度ではっきりしていません。それでも新道は旧道との位置はそれほど違ってはいませんでした。塩沢地区は庚申塔をはじめとした石碑が良い状態で保存してあります。

 荒神山の峠の青面金剛(e34)を初めにして、所処に有るので塩沢の里を塩沢川に沿って、街に向かっていきます。

 塩沢川とは途中で分かれますが、赤城神社(f20)の辺まで庚申塔や二十三夜塔が点在してます。赤城神社の先は切通しになっていますが当時は峠越えの状態と思います。ここを越すと旧塩原村に入る事になります。

塩沢ルート(穴原薬師・松源寺)

 塩原ルートは神梅から来る時も桐原方面に進む時も渡良瀬を渡らなければなりません。

 よってあかがね街道としては利用されることは少ないと思いますが、浅原地区と並んで開けていました。

 穴原薬師は眼病によく効くといいます。開基は定かでは有りませんが、大同年間(806~809)弘法大師の作という如来像があったいいます。また、本堂は享保15年(1730年)の建造で、方形造り、宝珠と露盤を1つの石から彫り出した棟飾りを屋根の頂部に載せてあります。

楼門はみどり市内に存在する唯一の楼門建築で、仁王様の頭部からは寛政四年(1792)に田村利八及び孫助・塩右衛門によって造られたとの古文書が発見されました。

本堂と楼門は昭和60年に市の重要文化財として指定を受けています。 

 道から少し離れて松源寺が有ります、

松源寺は大間々のあじさい寺と呼ばれていて、境内には桜・牡丹・つつじ・藤・紫陽花・紅葉等が植栽され四季を通して花を楽しむことができます。大変きれいなお寺で希望者には円空仏を拝観させてもらえます、他に円空彫りの作品もあります。

荒瀬ルート・浅原ルート

 f22-1の道祖神の所に、かつての大間々町時代の名物町長、新井整氏の出た家があります。

 ここをそのまま進み小さい橋(万年橋)を渡ると道は山道となり、この辺りから旧浅原村になります。

 ここがかつてのあかがね街道で、先には古文書にある浅原の戸沢の渡しとなります。

 戸沢地区は川の右岸で桐原側、左岸の浅原側は寅久保地区です。

 今は踏み跡程度で道ははっきりしません。下ると県道に出ます。すぐ目の前に発電所があり、県道に出た所には寛政五年の庚申塔(f22-3)があります。

 この庚申塔の裏には文字が書いてありますが、判読できませんでした。なんて書いてあるか興味深々です。

 塩原地区から渡良瀬を渡り、桐原地区に行くには戸沢の渡しともう一つ荒瀬橋があります。

 荒瀬橋へは、先ほどの道祖神の所を道なりに右に曲がると間もなく左に入る道がありますからこの道が川に向かっています、道なりに進むと新しい道に出ますからここは右に向かいます、ここから福岡大橋の手前で県道に出ますが県道から川に下る道の痕跡はありません、しかし対岸の老人憩いの家の所から「わ鉄」に下る道があり、これがかつての荒瀬橋の痕跡と思われます。どこから渡ったかは定かではありませんが、大体この辺である事は間違いないと思います。

 荒瀬橋は資料でも「土橋」 となっています。よって低い所に有り、維持費がかかり、水害には弱い物と推測できます。