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桐原ルート(瀬戸が原~銅蔵)

 桐原あかがね街道と世音寺来迎桜

 あかがね街道の様子を視覚的に案内してくれる資料に文化四年(1807)の「足尾通見取絵図」があります。絵図によると下神梅の集落をすぎると、道筋は日光坂と呼ばれた山道となります。

山道は手振山の西側を通って、桐原村の瀬戸が原へと入ります。村の境は、ちょうど山道の峠付近です。瀬戸が原地区には縄文の遺跡や平安の集落がありましたが、この頃は人家が全くない林でした。

絵図ではこの先遠入坂を下りますが、当初のあかがね街道は燧坂を下り上桐原地区に出ました。そこから、遠の久保稲荷(当時は有りませんでした)付近より大日様(当時は大源寺といった)の下を通り大間々村に入りました。

大間々村は文禄年間(関ヶ原の合戦の前)に桐原村から分村したとされます。水の便が悪く米は作れませんでした。しかし、利根郡と根利道に通じ、桐生や太田伊勢崎方面にも通じており交通の要所でありました。このため早くから六斎市が開かれ、利根郡の繭や東上州の生糸・絹布の集散地として栄えました。 あかがね街道との関係は開設した頃から継場として五丁目と六丁目の間の高草木家に銅蔵が置かれて、山間部と平野部を繋ぐ重要な役割を担っていました。 この頃の街道は、大間々からは鹿田山の西、清泉寺付近を通り、直接新田郡に入り境平塚の河岸より利根川の水運を利用して浅草まで運んでいました。

 

桐原ルート(Ⅱ)

 しかし、大間々が前橋藩領になったことにより、継場としての銅蔵は桐原の藤生家に移管されました。

移管に伴い銅の運搬は燧坂から遠入坂に変わりました。

  遠入坂は街道筋ということで桐原村の自普請で行なったそうです。

 

絵図では遠入坂の先は二股に分かれ、一方は先ほどの大日様の南を通り大間々村に入ります。

桐原村には坂を下ったり登ったりして入っていますが、実際には途中から右に曲がり、「でんぐり薬師」の前を通り、桐原の通りに出たようです。

桐原の集落は上町・中町・下町に分かれていて、その中で、高札場や世音寺が所在する中町には銅問屋(藤生家の銅蔵)もありました。

道の中央には世音寺から南に向かって水路が通っています。世音寺には地蔵堂があって、すぐ北側に「天王稲荷山王」の描きいれがあり、これは現在の杉森稲荷です。

世音寺の北側に「字来迎桜」の文字があります。ここの桜は高さが三百尺(約10m)を越し、周囲は十人以上で囲むほどの物で、遠路からもはるばる桜見物の客が来るほど有名でした。

 世音寺は天台宗の古刹で天明七年(1787)の桐原桜碑に「此地に一塊桜あり。故に昔寺をここに遷す」とあり来迎桜の地名はこれに由来します。また、聖観音を本尊とする寺である事から芭蕉の弟子の蘇門とその補助連中によって「観音の甍見やりつ花の雲」の句碑が桐原桜碑の脇に建てられました。この句は深川芭蕉庵から浅草の方を望見して作ったもので翌年には「花の雲鐘は上野か浅草か」を作って一連二句の対句形式としています。(貞享三年・1686)

この頃の街道は南に延びていて右に曲がると大久保から関に向かう道、(国道353の一本北の道でカボチャの所に出る)があり、曲がらずに進むと十字路になり左に行くと大間々、右に行くと不二山の南に出ました。大間々からの道は今の厚生会館の敷地を通っていたようです。

街道は桐原の出口付近で二股になり伊勢崎方面と大原方面に分かれますが、ここの道標は現在でも残っています。街道はこの先鹿田山の東に向かい大原宿を経て上江田村を左折、亀岡銅蔵に通じていました。

大間々ルートと光栄寺の秘密

 前期の通り大間々町は桐原から分村され大間々6人衆(高草木対馬則継、金子修理、大塚城四郎、須永逸平、長沢伊織、佐藤太郎左衛門)により開発されました。

 光栄寺は慶長八年(1603)、に良瑜上人とこの六人衆により創建されました。この時に一丁目から六丁目まで細長く作りました。

光栄寺の正式名称は「瑠璃光山医王院光栄寺」といい京都東山の智積院を総本山とする真言宗智山派に属している寺院です。

 あかがね街道との関係は初期の街道が桐原から大間々の町中に入った所にあり、絵図にもはっきり描かれています。

 本堂の建設年は元禄二年(1689)に建造し弘化四年(1847)年に改造されたものとの記録があり、内陣正面や外陣廻りおよび外部の正面に突きだした唐破風造りの向拝は弘化四年の改造時に付設したものと推察できる。

 唐破風と向拝の龍の裏には「当國花輪住石原常八正信彫之」と刻んであり、内陣、外陣境の唐獅子の下部には「釈迦堂 真浄」の線刻銘がある。真浄がどの様な人物かは分からないが石原常八は、波の伊八、弥勒寺音八と並んで「江戸の三八」と呼ばれ各地に優れた作品を残している。

 特にここの外陣正面の龍は不思議なことに「子持の龍」ではっきっり子供の龍が彫られています。

 龍には九人の子供がいて、どれも龍の形はではなくそれぞれ好む特徴があるといいます。でも安心して下さいここの子供の龍は親とそっくりです観覧ご希望の方は当たり前の事ですが、住職の了解のもと失礼のない様にしてください。