全性寺の向拝の龍、子供がみられる。
彫亦 岸家4代
岸家4代の祖、初代岸亦八は寛政四年(1792)現太田市脇屋の渡辺家の4男渡辺亦八としてに生まれたそうです。子供の頃から亦八を名のっていたかどうかは分かりませんが、10歳位の時に熊谷の飯田仙之助の養子弟子となったと伝わっています。
しかし17歳の時に飯田仙之助にに実子(岩次郎)誕生により養子縁組を辞退し、20歳代の終わり頃、仙之助の元を離れ、藪塚の山之神村で独立しました。山之神村は故郷の脇屋から少し北に行ったところで近くにはあかがね街道が通っています。
亦八はその後地元の川岸家の婿養子となり。彫り物師として岸亦八を名のるようになりました。以後4代にわたり、山之神を拠点として活躍し、土地の人からはは初代亦八から名をとって「彫亦」と呼ばれていたそうです。
花輪の石原家とは、妻沼聖天堂の貴総門に協力したのをかわきりに、常八四代目以降を弟子にしたり養子縁組をするなど深い関係がありました。
初代亦八は自らも公儀彫物師として上州や武州ですぐれた作品を残した名工ですあるばかりでなく。当代一の名工で宮中賢所の菊の紋章を彫った弥勒寺音八を育てたことでもしられています。
聖天堂の貴総門は棟札に石原常八主利(三代)の銘があり、大工は林正道で二代の主信、初代の岸亦八も手伝っているいそうです。飯田仙之助の口利きがあったのではないかと思いますが。仙之助は箭弓稲荷を最後に引退したのかどうかその後の作品はない言ことから、貴総門の頃はすでに亡くなっていたようです。
箭弓稲荷の時は飯田仙之助・岩次郎の親子に協力した後も、妻沼の氷川神社や桐生の美和神社等を手掛け地元、全性寺(1848)の頃から倅の岸大輔の銘が入り始めたようです。
亦八には男の子供がなかったので津田村の三村太七が婿入りし、(1858)40歳の時に二代目を継いでいるそうです。太七は大助、大輔と記す他二代目亦八と記されるのもあるそうです。
年代は不明ですが、世良田の総持寺を手掛けたとき大工の棟梁が弥勒寺音八の父で自らも彫刻の覚えのある音次郎との伝があり、それが縁になっていたのかもしれません。又八は藪塚の長建寺(1863)を最後に第一線を退いたようですが、85歳の天命を全うして明治10年(1877)に亡くなったそうです。
三代目になる幸作は天保十四年(1844)花輪の石原常八主利(三代目)の三男として生まれ、二代目に弟子入りしました。太七の倅が夭折したため(1863)19歳の時に岸家三代目を継いだようです。幸作は花輪の名工の出身だけあって、その才能には太七も驚き嫉んだとの話も残っているとか。長建寺の欄間彫刻の裏には山神住七十二翁岸大内蔵に続いて彫工として 大助・幸作と岸三代の銘が並んでいます。
(1867)年の安中・桂昌寺の時は二代目岸亦八義福の名と同幸作の銘があることから、この頃、正式に二代目を襲名したようです。
早くのうちから三代目を継いだ幸作は腕の良さを見込まれたため、かえって不幸な事件に巻き込まれ、若干28歳(1872)の若さで没してしまったと伝わっています。
明治に入ると新政府の政策から寺社の仕事がめっきり少なくなり山車や輸出家具に残っていきますが幸作が生きていればどのような作品が残ったのか、このような中でもきっと素晴らしい作品を残したのではないかと思われます。
幸作は若いうちに婿入りしたので四代目になる寅次郎を残しました。寅次郎は祖父太七の下約20年修行を経て四代目を襲名したようです。しかし時代は明治新政府の政策から腕を揮うことなく不幸の時代を迎えた。寅次郎は明治37年の藪塚の長円寺に彫刻を残した後横浜の叔父高松政吉を頼って家具職人の道を進んだようです。