太田冠稲荷 聖天宮の天井の金龍

江戸の三八 弥勒寺音八

 

 初代亦八は自らも公儀彫物師として上州や武州ですぐれた作品を残した名工であるばかりでなく。当 代一の名工で宮中賢所の菊の紋章を彫った弥勒寺音八を育てたことでも知られている。

 音八の父親、音次郎は境下渕名の宮大工の棟梁であるばかりでなく自ら彫刻をも手掛け、太田の冠稲 荷、聖天宮時は親子で手掛けている。 世良田の総持寺総門は大工が音次郎で彫刻は岸亦八と伝わるが、その時に又八の力量と自らが彫工と して仕込まれたものではなかったことから息子を弟子入りさせたと伝わっている。

 あかがね街道の銅の輸送は、初期の頃は大間々から笠懸の清泉寺脇を通り、大原から新田町に入り大 慶寺、世良田の総持寺を通り、堺平塚河岸の銅蔵から船で浅草に向かっていたのである。


 音八は文政 4 年(1821)小林音次郎の長子として生まれた。音次郎は文政 2,3 年頃、下渕名の小林新七の 娘婿になり小林姓を称したが、弘化 4 年(1841)頃養子先の母の姓、弥勒寺を名乗る様になったとのこ とである。 音八の名前の出る最初の作品が伊勢崎の千本木神社(1836)で、この時は小林の姓を名乗っ ている。音八 15 歳の時の作品である。 嘉永 6 年(1853)には平塚の銅蔵の少し手前に赤城神社があり、これも弥勒寺親子の作品として仕上げ ている。

    世良田 総持寺山門

冠稲荷 聖天宮 脇障子(音次郎と伝わる

  笠間稲荷 曲水の図


  又、安政 4 年(1857)の桐生の観音院の時ははっきりと岸大蔵内門人 音八と称している所から音八の 彫技は岸亦八に授けられたものとするのが正しいようである。 同年に太田の冠稲荷・聖天宮を手掛けている。ここの彫工として弥勒寺音八の名と共にその門弟の諸 貫万五郎の名が見られる事からこの頃はすでに独立しているものとみられる。

  冠稲荷は音八の最後の地元作品となりこの後は諸貫万五郎と共に天引観音や笠間稲荷を手掛けること になる。天引き観音は音八の名が日本全国に知られることになった作品であったが、戦時中雷火に遭っ て焼失してしまい、現在の建物に音八の作品はない。

  笠間稲荷は安政年間末より 10 年の歳月を費したのである。総棟梁は後藤縫之助であるが、社殿に施さ れた彫刻の大部分は音八が管領したのである。明治期に入り、皇居の大造営の話が持ち上がり音八は笠 間稲荷の完成を待たずに宮中に召された。音八は宮中賢所の表玄関車寄せの正面の菊の紋章を拝命して 彫刻したのである。