あかがね街道花輪宿のすぐ隣が荻原宿、足尾から見るとすぐ先になる。現地を訪れるとわかることだがこちらの方が宿場町としての形態が残っている。当時花輪には銅蔵があって荷物の積み込みの騒音や馬の世話や臭い等、本来、人が泊まる宿場としての環境は荻原宿の方が勝っていたのかもしれない。
現に大河に渡る船の発着場があったり、中央にある「善雄寺」には天海上人の伝説や芭蕉の句碑もあります。石碑には「此のあたり目に見ゆるもの皆涼し」と刻まれています(詳しくは本文の観光情報の荻原ルートを参照してください)。この善雄寺に政八・慶助のお墓ががあります。政八は俳句を楽しんだらしく、句碑建立者の中に政八の名がみえるそうです。慶助は画家としても知られ、甚内、東渓とも称しています。
墓誌には政八の亡くなったのは文化八年(1811)十一月十九日、慶助は安政二年(1855)六月八日行年79歳とあるそうです。
星野政八
政八の生まれた年は分かっていない、そこで仮に慶助が30歳の時に生まれたとすると、(1746)に生まれ65歳で亡くなったことになる。
最初に名が残されたのが(1761)大滝村の三峰神社15歳少し早いがそれほど大きな違いはないと思う、文治郎とは15歳ほどの違いとなる。文治郎とはその後熱田神宮には名が載るが、独立して最初の仕事が昭和村橡久保の千賀戸神社本殿といわれている(1768)。独立はしても、小倉弥八や前原藤次郎のグループにも名が出てくる。
文治郎の作品の桐生天満宮の時は棟札には名前がないが客分扱いなのか蟇股の裏に墨書が残されている。最後に出てくるのは死後10年くらいたってから、二代目常八の出世作といわれている野木神社の棟札、倅の慶助と一緒に出てくる。親代わりに指導したうちの一人ではいでしょうか。
星野慶助
慶助の作品は近在にも残されていて最初の作品が桐生川内の延命寺で、今は大間々高津戸の自音寺に移されたが、その時、欄間枠になるところに銘があったといいますが今は見ることができません(1804)。
次は小平の木宮神社である(1807)。31歳の頃の作品で力強く優れた作品である。この作品の特徴として妻沼の聖天堂の作風が所々に表れているが慶助も政八も参加した形跡はない。これは初代常八の影響を受けたのではないだろうか。因みに初代常八が亡くなったのは慶助15歳の頃である。
桐生の梅田から栃木の飛駒に行く道のわきに皆沢八幡がある。この辺には珍しい春日造りの本殿に豪華な彫刻があり建物調査の時、胴羽目の脇の墨書が見つかり荻原村星野慶助とあった。
慶助は画家としても知られ多くの作品を残している。