あかがね街道(本道)とは少し外れますが、松木川と表記された上流の三つの沢にはそれぞれの沢の名がついた集落があり。延暦年間、勝道上人が日光を開いたころから人が住んでいました。
この村の生活が一変したのは明治17年(1884)この村の2キロ南で足尾銅山の製錬所(a09)が操業を開始しました。
それからわずか18年、明治35年(1902)廃村に追い込まれました。製錬所から出た亜硫酸ガスが農産物を奪いさらには山の木も枯したのです。
足尾銅山の水力発電は日本で最初のものです、そのほか足尾銅山が明治期の日本の近代化をリードしたのは間違いない事実です。と同時に公害問題を起こしたのも事実、一番の犠牲は足尾の住民の犠牲の上に成り立っていました。ここ本山精錬所周辺はそんな現実が見られる場所です。
掛水倶楽部(a14)は明治32年(1899)貴紳客の接待と宿泊施設として設けられました。
当時の「足尾銅山」の書では「洋風の大館、和風の高楼を並べ、応接間、食堂、寝室及び娯楽の各室を設け、屋外は広き庭園・・・後苑には珍草奇木あり、四時花を絶えず・・・川流にのぞみ一段低き所に幽佳の小池ありて藤棚之を掩う。風景の佳、実に足尾第一なり。」と述べられています。
娯楽室としてビリヤードが設けられ当時としてはハイカラの尖端を行くものでありました。
明治40年、鉱業所の事務所と幹部役宅を掛水に集約することになり、洋式木造二階建てで、一階は洋式で、暖房にマントルピース、照明はシャンデリアを用い、二階は和室で会議や宴会所を増築しました。
この形式はイギリスの建築家ジョサイア・コンドルの一つのパターンであるそうです。
内部には渋沢栄一翁の書もあり、内部の公開も行われています。見学には一定の条件がありますから事前にお調べ下さい。
通道駅周辺は江戸の頃は赤沢村と呼ばれていました。
道の両側に民家が立ち並び右の民家の後には「字新床屋」とあり、銅の吹立をする所でした。
吹所、あるいは吹立床屋といい最盛期には五十枚(軒)ほどありましたが寛政年間には吹床二枚に激減、この絵図の作成された頃はその衰徴の極みにあった時代だそうです。
今の渋川は床谷川の書込みがあり、字江戸町板橋(a17-4)とある所から橋周辺は江戸町と呼ばれていました。「これより4丁ほど下流にて渡良瀬川出合とあります。1丁を約110mとすると450mほどになるので今の位置とそれほど違わない位置になります。
渋川は川水が柿渋色から生じたそうですが吹床が沿岸にあったので吹谷川となり上流の床屋に対して下流の江戸町に造られた床屋を新床屋と称したということです。 写真はあかがねの道はここから始まるを参照してください。
ここには陣屋があったとされ、代官所跡の表示もあります。そこで愛宕橋をあかがね街道の出発点と仮定しました。
足尾歴史館 はここをクリックしてください。
磐裂神社は庚申山講の登山の出発点で、切幹橋の所に有る大きな庚申山碑(a20)は昭和25年に移動するまでこの神社の第一鳥居脇にありました。
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」に庚申山の化猫退治の話が出てきます。犬飼現八が庚申山の麓の茶屋から登って行って化け猫を退治しますがその茶屋があったのがこのあたりだそうです。
(北日記)には「右の方山奥に猿か浄土とて奇なる所あり山中に宿せざれば見る事ならず道甚だ難所なるよし、とおしも村妙見の社鐘もあり、森の中を過ぐ社は左にありぬ」ということから見ると今の街道よりずっと山側を通っていたのでしょう。すると「わ鉄」の軌道内の近辺だったのかもしれません。
(北日記)によると「原村を過ぎて又橋を渡りて板橋を渡る、皆渡瀬川へ入る、渡瀬川大白大ふし皆白く見ゆ、岨道甚だ嶮也、棧有て木を横たへ藤にてからみ落ちざるやうにせし所を上りて下る是を小なと号す、七八丁の間道所を経てまだ上がる、是も岩山の小なに如し、下野と上野との境有り、是れ迄足尾から一里10丁斗り日光神領也、猶を上登るこれを大なと号す。」とある。
板橋は唐風呂橋でしょうから渡ってから渡良瀬川に向かうと渡良瀬の石が皆白く見えるとある、この辺は御影石が多いことから白く見えます。この先の地名にも字平石平なる所もある。岨道(そばみち)は険しい山道のことではなはだ険しいとあるしさらに桟とは急な斜面に滑り止めに使う横木で更に藤で縛ったと有りますから、これは絵図の道ではありえません。
地元の方に伺った事によると今の足尾トンネルの右のところの沢筋を上った所を小名峠という話がありました。ほかの方も山を越えてトンネルをでたところに石の庚申塔の様な物があったとのことでここに峠道がり小名峠といったことは間違いないことだと思います。
しかし後日トンネル上の尾根筋を調査しましたが、道の痕跡はありませんでした。とすると絵図の通りで旧国道より上の所を川に沿っていたのかも知れません。
これは宿題です。