飯田仙之助

  飯田仙之助は上州の花輪で生まれた。父親は飯田与右衛門安興とも安範ともいわれているがよくわかっていない。わかっていることは熊谷の宮大工の棟梁で林兵庫の世話によってどちらかが、花輪の地に彫刻を学 ぶために訪れたことです。 小林源八はこの時に弟 子入りさせる為に連れて来たと思われます。

  時期は分かっていませんが妻沼の聖天堂の設営が一段落した頃ではないでしょうか。当時正妻は熊谷にいて花輪に来るとは思えませんから、母親は現地の人と見るのが自然です。吟八郎には息子がいた形跡はありませんが、娘がいて仙之助の母親になった可能性はなくもない。

 すると仙之助は吟八郎の孫となり、次の石原家の正統な跡取りとなります。吟八郎は仙之助が生まれる前年に亡くなっていますが、周りでは大いに期待したに違いはありません。


 仙之助は先行き熊谷に帰ってしまうかもしれませんが石原家としては期待して育てるとともに石原流の流れを断ち切ってならないと思うのは自然の流、そこで石原吟八の二代目を前原藤次郎とし、石原宗家を松島文蔵に任せ、初代の石原常八として仙之助が出世す るまでのつなぎにしたのではないでしょうか。 

 仙之助の最初の名前が出てくるのは太田の冠稲荷(1815)、仙之助が生まれる前年に藤次郎が手掛けたも のでこの時修理修復、追加の化粧を行ったと思うが仙之助 47 歳いささか遅いデビューである。

   しかし、冠稲荷の本殿の彫刻の裏にはっきりと、「石原吟八藤原義武、石原吟八藤原明義とあり、続け て門人飯田仙之助藤原義棟」と書いてある。 仙之助の師匠は系統では初代常八になっているが、上記の理由から二代吟八としている系図 もある。 初代常八には4人の弟子がいて、飯田仙之助と二代常八、栗原新蔵の他に熊谷の小林源八がいる。

 こちらは仙之助の父が来たとき一緒にきて、その後修行をして熊谷に帰りました。仙之助が生まれていなければは武州系彫り物師の中心になったことは間違いないことで箭弓稲荷の奥宮(1798)は彼が手掛けています。

   仙之助が単なる弟子とした場合このような墨書きを残すのは不自然ですし、二代吟八の正統な跡継ぎ の様に書くのは不自然で、初代吟八の孫でなくても何らかの血縁関係があったと見る方が自然です。

  実は、仙之助も男の子には恵まれず弟子の岸亦八を養子としたようであるが、娘婿に岩次郎を迎え、岩次郎と箭弓稲 荷を手掛けている(1836)。この箭弓稲荷の向拝の龍は子持ちの龍で親の半分ほどであるが、側にしっかり とついている。 仙之助自体の作品は残されているものは多くないが、二代目との共作や武州を中心に多くの作品を残している。  小林源八は先の奥宮の他に西毛方面に優れた作品を残した。二代目で号を小琳斎と称し、「関東の名工」 とか「熊谷源太郎」とも称された倅と共に上州、武州だけでなく越後にも多くの作品を残しています。  武州系彫物師の系統は先ず初代常八から小林源八と飯田仙之助に分かれ、源八は独自にその後の岸亦 八に受け継がれていきます。  武州の彫刻師の系列は仙之助だけでなく、初代吟八の弟子の石川勝右衛門周信がいてこの弟子の石川雲蝶は越後のミケランジェロといわれ幕末にかけて源太郎との共作を含め、多くの優れた作品を残して います。