清水寺 地蔵堂

座間の彫刻師 高瀬 三代

 

 高瀬万之助関係は花輪系といわれ吟八郎の弟子とされている。東村誌には「文治郎、軍八郎、藤次郎 と同じ頃彫刻を手掛けていることを考えると師匠は吟八郎であると推定できる。」となっている。しかし、 彫刻銘等は無いのである。あかがね街道の彫刻師集団の祖は高松又八以外には考えられないし、又八の 系列を引き継いだのは吟八郎であるのは間違いないところである。

 しかし、又八には吟八郎以外にも 11 人の弟子がいて花輪以外にも散らばって活躍しているが、地元で活躍している弟子も居るの である。その筆頭が吟八郎であることは間違いないが、新井孫四郎、板橋伊平次、田沢与兵衛がいるこ とを無視できない。

 この中で新井孫四郎と板橋伊平次に関しては多少の痕跡が残されているが田沢与兵 衛の場合は全く不明なのである。


 高瀬三代は座間の出であるが本人がいれている銘でも花輪の 高瀬・・・と入れている。しかしこれ は花輪のブランドを利用したもので、花輪の石原吟八郎との関係を示すものではない。因みに座間地区 とは旧足尾線で示すと大間々から上神梅・花輪・小中・神戸・草木・沢入となり足尾地区の原向に繋が るが神戸と草木の間で渡良瀬川の左岸地区になり、現在の草木ダムの堰堤の下流地区である。

 黒川谷の彫り物師は5つのグループに分けられる。花輪、田沢、荻原、座間、新里となる。花輪グル ープは石原吟八郎の系列で熊谷の飯田仙之助の系列や小林源八の系列も含まれる。

 花輪グループは本家としての太い系 列で明治までも続いている。 田沢グループは関口文治郎をはじめにして吟八の門下生である小倉弥八や大塚三次郎も含めても良い と考える。優れた作品を多く輩出しているが文治郎の名で売り出していた感じが強く、文治郎の死去と 共に消滅してしまった感がある。

 荻原グループは前原藤次郎や星野政八になり、その地域性からか時に は花輪グループを応援し、時には田沢グループを応援している。新里グループは板橋伊平次を中心に独 自に進んでいるが時には花輪グループと協力した感もある。

 座間グループは高瀬三代だけで他との協力関係はほとんどみられないし、活動地域も地元以外では沼田から水 上・中之条地区に集中しているなど他には見られない活動をしている。

 高瀬初代の万之助の名前が最初に出てくる作品が中之条沢渡の宋本寺(寛延三年 1750)である。妻沼の 聖天堂の本堂が完成して工事が中断している頃である。これは彫刻した欄間が 24 面になるほどの大作で 棟札には大工棟梁には松本吉右衛門、彫刻師として「当国勢多郡花輪住彫工 高瀬万之助 同苗忠七」 とある事から親子で参加していたことが分かる。

 この棟札の裏面には延享元年(1744)7 月か ら着工の書き込みもあり六年間の工事であったと思われる。また、享和元年(1801)に忠七が再度仕事をし たと思える銘も記されている。

忠七の作ではないかと思われる清水寺地蔵堂の彫刻


 万之助と忠七が親子とすると前原藤次郎と忠七が同年であるとおもわれ、万之助は吟八郎と同年配も しくは少し下とも思える。これらから推定できることは万之助が吟八郎の門下生ではなく又八の直の弟 子もしくは吟八郎より年上の又八門下生の弟子ということになる。ただし吟八郎最後の作品と思われる 高崎の八幡が(1757)であるのに対し万之助は吾妻の大運寺(1798)となっている、すると 41 年の差がある ので同年代とみるのは不自然であるとも思える。

 地元神戸の清水寺は忠七の作品と思われるが、高瀬系統は調査が進んでいなく、高瀬万五郎にしても最初の作品から次の作品に 30 年近くの開きがあ りいかにも不自然である。今後の調査に期待するところが大きい。