綿打・上江田 i20 地区
三ツ木ルート
三ツ木ルートはこの地区では綿打や田中町を通っています。中でも県道292号線と交差する辺りは古くから栄えてきた様子が見られます。
江田南ルート
江田北ルートは木崎ルートの分岐点(i12)までとしたのでその先例幣使街道と交差する辺りまでを荏田南ルートとしました。県資道では分かれてますが、龍得寺の所で分かれてますが、当初は西側でその後東にもなったものと思います、因みに西の道には「大道」の呼称が残っているそうです。
大原が開設されたのが寛文十年(1670)で亀岡の銅蔵が開設したのが元禄元年(1688)ですから、このルートが使われたのは長くても18年となります。江田ルートから先の開設の具合ではもっと短くなります。
銅運搬に限定しないければもっと長期に使われたということになります。
木崎ルート
木崎ルートは上江田の分岐(i12)から木崎の例幣使街道の交差点(i29-4)までとします。
亀岡の銅蔵が開設されたあとはこちらが使われたことになりますが、資料が少なく、地元の方で事情を知っている方も少ない様なので県の資料を元に調査しました。
世良田・境平塚 i21 地区
平塚古道ルート
三ツ木ルートが例幣使街道と交差した所から銅蔵跡(i25-3)までとしました。こちらは総持寺(i22)の門前を通りは早川沿いから薬師橋(i23)を渡り、赤城神社(i24)から銅蔵跡(i25-3)までとしました。
平塚新道ルート
こちらは江田南ルートが例幣使街道に交わった後少しの期間は共用としてます、小角田町の辺で尾島工業団地に入り、東武伊勢崎線の弐つの踏切の内東の所としました。ここには明治二十一年ですが猿田彦の塔があります。その後東照宮の西を通り同じく薬師橋から銅蔵に向かいます。
新道としましたが銅の運搬は元禄期(1688)まででしたのでその後の改変もあるので詳しい所は分かりません。場合によっては古道ルートも新道ルートもなく一緒に使っていたんのかもしれません。
薬師公園の所の案内によると薬師橋はもう少し下流で、早川の流れももっと変化していたようです。
新田木崎 i22 地区
木崎ルート・亀岡ルート
絵図は例幣使街道と交差した所で終わっています。そこで木崎ルートは例幣使街道までで、その先は亀岡ルートとしました。亀岡ルートは銅蔵までです。
木崎に大通寺(i29)があり、道標が残っていました。道標は当初は常夜燈になっていたようですが、今は正徳太子文字塔(i29-3)の台座になっていました。この台座には「右 大門 左 大原 大間々」の文字か描かれていました。ここで大門とは大通寺の門であるので、この辺にあったことは確かと思います。
亀岡ルートの内太田フレックス高校の所で不自然に曲がっているのは「岩松館跡」ということです。この後「銅橋(あかがねばし)(i31)」を渡り県道142号線を渡ると右に行ったところが銅蔵(i33)です。
亀岡・前島 i23 地区
前島ルート
銅蔵に入れた後は船便で浅草まで運びました、その昔は利根の流れが一定でなく明治期の図では早川の辺を流れててもいたようです。県の資料では安永五年(1776)の上利根川14河岸仲間の一つで船積問屋が8軒あったそうです。もしかすると流れの具合で最終の船積場所を変えていたのかもしれないですね。