足尾中部 a04 足尾通洞地区
足尾町中ルート
大黒橋(a12)から愛宕橋(a17-4)までです。
現代では足尾駅の方へ向かっているが、旧道は掛水倶楽部の所を通っていたのではなかろうか、その後はほぼ現在の道を愛宕橋の所に向かったとおもわれる。
途中にある宝増寺(a16)には勝道上人が彫ったといわれている大黒様が残されている。また、足尾キリスト教会は(a16-3)は日本の鉱山地として選ばれ、明治41年に建てらたもので登録有形文化財となっている。
通洞駅周辺はかつて代官所があった場所と伝えられ、案内板(a17-1)もある。一方鋳座跡は鋳座跡の碑(a17-3)
はあるが、絵図では中才沈殿所の周辺に描かれている。
江戸の頃は製錬の中心になっていたのと、江戸町板橋の描きいれもあり、代官所も近いとあるので「あかがね街道の始点」と仮定した。
足尾南部 a05 地区
磐裂ルート
磐裂ルートは愛宕橋(a17-4)から庚申川(a20-1)までです。
現在では銅山観光、足尾歴史館、通洞動力所跡、通洞変電所等がありますが明治以降の中心でもあり、街中が改変されているので江戸の頃の名残はほとんの残っていない。道路もどこを通っていたのさえ分からないのが現実です。
そんな中でかつて妙見様の愛称で親しまれいた磐裂神社(a19)には貴重な遺産が残されています。
唐風呂ルート
唐風呂とは「枯れた川の水温む地とも洞穴があった」ともいわれています、先ほどの庚申川(A20-1)から餅ヶ瀬川(a23-1)までです。
明治期の頃は馬車鉄道やガソリンカーを利用して銅を運んだので、原向から先は左岸を利用したようです、その為巣上沢周辺から唐風呂地区に至る所は古い痕跡が多く残されています。
街道はまず巣上沢(スガミサワ)を渡ります、巣上沢の上流には集落がありました。わたって急坂を上ると唐風呂集落の中心に生きます、街道はこの沢に沿って下りました。そこに可愛いお地蔵様があって、今度は餅ヶ瀬川沿いを上ります。上って行くとお店があってそこに橋が有りそこを渡ったようです。当時は唐風呂川と呼んでました。
足尾南部・沢入北部 a06b 地区
峠ルート
橋を渡って川沿いを少し下ると山に入る道が在ります(a23-1)ここから道は二つに分かれ一つは旧国道に向かい川沿いを進みます、あと一つは峠を越してから合流し大名峠をこしてから楡沢(b02)に向かいます。これを峠ルートとしました。
絵図に描かれている道は川沿いです。しかし寛政2年(1790)の北行日記には峠越えの様子が書かれていて川沿いの記述はありません。絵図は文化6年(1806)に描かれました。
この川沿いの道は少なくも幕末には使われなくなったようです。おそらく災害に弱く維持するのが大変なので使われなくなったのかも知れません。
再び使われるようになったのは明治になってから、沢入トンネルの脇の川沿いの道と共に利用され、近代になり国道122号線として復活。足尾トンネルが開通するまで使われていました。
今の足尾トンネルの上は小名峠、沢入トンネルの上は大名峠と二つの峠道はあかがね街道でも最難関といわれています。
沢入地区 b07
沢入ルート
沢入ルートはトンネルを越えた楡沢(ニレサワ)(b2)から東宮神社(b13)までです。
楡沢沿いには歴史のある集落がありましたが今は数件の家、石碑を残して住んでいる方はいなくなりました。楡沢の次は春場見、名越を通り沢入に入ります。沢入は最初の継立として銅蔵が設けられたところで、足尾からは2.5里、他の区間から比べると明らかに距離は短いのでいかに二つの峠越が大変だったか想像が付くと思います。
銅蔵からは石畳の道を川沿いまで下り今はオートキャンプ場になっている川沿いの道を進みました。キャンプ場を越えたあたりからはダムの水が増えると湖底に沈む道を進んだようです。東宮神社からは再び草木ダムの湖底の中です。