荻原・関守・水沼 d12e 地区
荻原ルート・五覧田ルート・関守ルート
荻原ルートは房川から小黒川までで、途中から五覧田ルートが分かれます、また小黒橋付近からは関守ルートが分かれています。五覧田ルートは関守ルートに合流します。関守ルートは万年橋があった所までです。
房川の所から荻原地区に入り、善雄寺の門前あたりから左に入ります。そのまま進んだ所に広瀬の渡しがあり大畑ルートに合流してました。右に大きく曲がり善雄寺の所から山の方面に進み五覧田城址の南を進んみ関守ルートに合流しました。この道は小黒橋が出来るまでいわゆる黒保根の前期ルートを通る時の道ではっきりした確証は有りませんが善雄寺の境内を通っていた可能性もあります。
広瀬の渡しの所をそのまま進んだのが荻原ルートです。そのまま小黒橋の所まで進みますが実は道が改変されていいてはっきりしたことは分からないそうです。
小黒橋が渡れない時の為にここの手前から川を遡る道があります。これが関守ルートで道の両側には庚申塔や馬頭尊が残されていて、当時の雰囲気が残っています。関守ルートは奥の庚申塚(d21)の所で道が止まっています。また地名からもここが重要な地区であったことが分かると思います。
水沼ルート
水沼ルートは小黒川から津久瀬地区までとしました。途中から水窪ルートが分かれています。水窪ルートは万年橋の所を通りその先上田沢に向かっていたと思われます。
小黒川を渡った所は崖が川に迫っているところからどこで上ったのが問題になります。しかし現在の国道とそれほど違いわない所を通っていたものと思われます。国道と別れる所は津久瀬地区に入る所(e24)でその先は後期ルートとしました。
水窪ルート
水窪ルートは国道のメロディーラインが始まる所でここから山に向かいますいったん上り次に下った所に薬師堂跡があります。ここに関守橋があり対岸に渡れますが当時にあったわけではなくここでは渡れる所は有りません。少し進むと民家の跡があり道はその先ははっきりしてません。しかし、村史によると少なくも万年橋まで続いていた様で、さらに遡り現在の県道まで続いていたようです。更にその先の上田沢地区に行く道は他に見当たらないことからこの先に続いていても不思議がありませんが今回そこまでの調査はしていません。
黒保根 e13f 地区
清水ルート・前期ルート
清水ルートは水窪ルートから始まり茶堂(e 07)までとし、その先は前期ルートとなり、後期ルートとの分岐(e14)までとしました。
黒保根地区は東北は小黒川、南は深沢川に挟まれ、渡良瀬川沿いの水沼を中心とした地区と点在した山間部の集落で構成されています。
山間部の各集落を東西に結んでいたのが清水ルートと前期ルートです。地形上としても沼田への玄関口でもあるので、戦国期には中世の城が多く設けられていました。
現代では県道62号線で沼田につながっていましたが、当時は南からは気勝沢沿いを、北からは清水ルートを経て小田の沢沿いとはっきり見て取れます。
後期ルート
水沼ルートは津久瀬までとしましたので、後期ルートは津久瀬(e23)から川口集落の庚申塔(e25)までとしました。
津久瀬地区はは江戸川を遡る道があり、上の下田沢地区とは往来は確保されてました。しかし津久瀬地区からから城下り川を越え本宿に行く道は確保されていなかったのではないでしょうか。
それで当初は大回りしなければならなかったものと思います。あかがね街道は当初は既存の道が中心で新しく造ってもそれほどかけ離れていない道ですが。後期街道は津久瀬地区から川口地区まで集落から集落をつなぐ道との形態は有りませんでした。そこで後期ルートが開発されたのではないでしょうか。
すると今までの通説、小黒橋の開通で後期ルートが確保されたのではなく。文字通り後期ルートが確保されてから水沼を通る「後期あかがね街道」が開通したのではないかとの推論も成り立ちます。
確証があるわけではありませんが、水窪ルートの薬師堂の歴史背景や前期ルートとの関係もはっきりします。
奈良坂ルート・桑代ルート
奈良坂ルートは水沼ルートをから別れ、五月橋を渡り峠の青面金剛(e34)までです。但しこのルートはかつて塩原地区が黒保根の一部だったことから明治期に開墾した道との記述が黒保根村史にありました。
桑代ルートはその村史に記載されていたのでそれと地元の方の意見を聞いて検証しました。すると見つけにくいが市道との分岐(e31)から道が伸びていて街道の体裁も整っていました。更に進むと奈良坂ルートにぶつかりますが、その先に進んでいる痕跡も確かにあります。
桑の代の集落の一二社神社にも痕跡が残り村史を裏付ける結果となりました。集落の道は東西に長く西に進むと大きく迂回し峠の方向を目指しています。そこで峠の青面金剛までを桑代ルートとしました。
神梅・塩沢 e14f 地区
写真 E 本宿 F 神梅・塩原・塩沢
本宿ルート
本宿ルートは川口集落の庚申塔(e25)の所から川口川に下り神亀石のあった所から宿廻地区を通り、深沢川(e30)までです。川口川は城下り川と呼ばれていました、川口の集落は下田沢地区に行くには前期ルートを利用するしかなかったそうです。
宿廻村には深沢城がありました。深沢川までを本宿ルートとしましたが、そのさきの神梅地区まで支配していたようです。
深沢ルート
深沢ルートは深沢川(f01)から日光坂の入口(f12)までとしました。角地蔵(f02)の所にのぼりそこから深沢宿の上に出て分岐(F06)を右、覚成寺の所を通り国道にでて分岐から日光坂ルートになります。
塩沢ルート
塩沢ルートは峠の青面金剛(e34)から山を下ります。ここも明治期の道がはっきりしていますが旧道もかすかに残っています。旧道は山を下りて道に出た所には沢があり、庚申塔(f14-1)があります。その先はほぼ道なりに進み塩原地区に入ります。道なりに進むと坂の途中で右に大きく曲がる所があります。ここに道祖神等の石碑がありここまでを塩沢ルートとしました。
塩原ルート
名前は似てますがこちらは塩原です。深沢宿の分岐を曲がらないで直進すると国道に出ます、国道からは上神梅駅方面に向かい貴船橋のところから対岸に渡りました。当時はこちらは裏街道で渡し舟の様な物があったようです。ここから穴原や薬師の所を通り坂の所から塩原神社の前を通り塩沢ルートに合流してました。
桐原・大間々 f15g 地区
花輪宿から出発した銅は黒保根地区を通り日光坂を上り、手振り山の西を通り桐原村の瀬戸が原地区に入りました。瀬戸が原は縄文や室町の遺跡が出た所ですが当時は林で山の中でした、当初の街道はここでg02の分岐地点よりヒウチ坂ルートを下り里に出ました。下りた所を右に曲がった所に高山彦九郎がよった深沢家が在ったようです。
ここから現在の広い道(当時はもっと狭かった思われれが桐原の各村を繋ぐ主要ルートと思われます)を進むと右手丘の上に遠の久保稲荷が見えます、遠の久保稲荷自体は後になってから立てれ道路の改修で現在の所に来ました。
街道はここから下の道を進み大日様(絵図では良源寺)の東の登り口の所に出て大間々村の本通りに出ました。大間々村四丁目と五丁目の間に銅蔵がありました。
大間々から出た銅は現在の赤城駅の手前で右に曲がりg33の庚申塔の所から一路鹿田山の西麓に向かって進みました。
大間々は当初桐原の一部でしたが水の便が悪く、畑や田んぼが作れませんでした。しかし交通の便が良いので市場としての町がつくられ、あかがね街道が開設された時から継立としての銅蔵が設けられました。
継立が桐原に移る頃から街道はヒウチ坂ルートからエンニュウ坂ルートに移ります。地図では真っ直ぐ大間々に出てますが実際の街道は八の宮神社の方に下ってから大日様の南に出てその後大間々に向かった様です。また実際の銅の運搬では途中から右に折れ、でんぐり薬師(g07)の所を通り銅蔵に向かった様です。
桐原からは大原に向かいますが初めの頃は鹿田山の西を、やがて鹿の沼の所から大原を目指したと思われます。
黒保根地区が通れない場合は左岸を通ることになります。花輪宿からはいったん東瀬橋を渡り大畑地区に入ります。荻原宿からは広瀬の渡しを使った様です、ただし銅の運搬の時は東瀬橋を使用しました。大畑からは八木原地区に入りここから桑の代に入り荒神山の所の奈良坂峠を越えて塩沢地区に入りました。桑の代から峠までの道はありますが、その道が確かかどうかは良く分かっていません、ただし峠の位置はそこに青面金剛があることからそこを通っていたことは間違いありません。
塩沢ルートは渡良瀬の渡り方で二通りに分かれます。一つは荒瀬ルートでこの場合は川の崖の登り下りや場合によると使えない場合もありました。もう一つは戸沢の渡しを利用する場合で、人の移動や簡単な物でしたらこちらの方が利用されていたようです。
銅の運搬の時は荒瀬ルートを使いg20の神明様の所から桐原北ルートを通り遠の久保稲荷の所より桐原の銅蔵、または金毘羅の社(g18)から大間々の銅蔵へ向かった様です。桐原のうちでも戸沢地区は川面との高低差が少なく上の台地に登るのも比較的に楽に登れました、もしかしたら荒瀬橋を渡った時も戸沢地区まで下ってそれから登ったこともあるかも知れません。
右岸の黒保根地区は大きな小黒川、川口川、深沢川を初めとして多くの川を渡らなければなりません。通常は左岸の各ルートを通っていたので整備してあったと思いますが、災害に弱い事からも右岸ルートも必要になったと思います。
この二つのルートは新栄橋の開通により使われなくなったのと、昭和22年のカスリーン台風により戸沢地区も壊滅的な被害を被り、痕跡は消えてしまいました。
また、文献も少ない所から推測の域を出ない私論であることを記しておきます。
大間々の地は山間部と平野部との連絡地とした、市場町として開発されました。まず北の沼田赤城方面は黒保根を経由して深沢宿から日光坂、ヒウチ坂を経由して入ってきた道が、あかがね街道として利用されました。渡良瀬右岸でも塩原地区の一部は今の貴船橋の所に、渡しか吊り橋があった様で「神梅館」のところで連絡していたようです。
北の渡良瀬川の渡るには荒瀬橋と戸沢の渡しが主で荒瀬橋の所には橋が通れない時に備えて荒瀬の渡しもあったようです。
浅原、小平、長尾根地区は山を越して桐生の川内地区とも交流がありましたが大間々地区とは寅久保からの戸沢の渡しを利用していたようです。この二つは渡良瀬の左岸ルートとしてあかがね街道の脇道として利用されていました。
東から渡良瀬川を渡るには「高津戸の渡し」だけだったようです。ここは今でも高津戸の里見氏の墓の所から降る道があり河原までおりられます。
渡良瀬はこの先で大きく左に曲がります。川沿いは桐生からの街道か来ていました。桐生の相生地区(旧蕪町)からの道は西光庵からg31の十字路に来ました、これが桐生街道と呼ばれていたようです。このg31から南に下ったのが太田街道で高山彦九郎が通ったと思われる道です。今は赤城駅の先で二股に分かれますが、当初は一本で諸町地区には踏切の手前の庚申塔の所から新田郡に向かった道があり当初の「あかがね街道でした。
二股のもう一本は大原宿が出来て、さらに、桐原宿が出来たあとの様なのであかがね街道と呼ばれましたが、実際には銅の運搬は行われなかった様です。
g31の十字路を西に行くと、今は国道353で坂を上って桐原の十字路に出ますが当時は真っ直ぐ本要寺に向かい左に進むと伊勢崎街道となります。また脇を真っ直ぐ進むと桐原宿のに入りそのまま進み早川に架かる橋を渡ると新川から粕川方面に行きました。
尚、桐原宿に入ってから少し戻り西に曲がれば大久保から関の方面に向かう街道となります。
日光坂ルート
国道122号線から分離(f25)し山に向かいます。神梅新道が出来てからも使われていた様で一部ガードレールもあったし、峠の道標(f13)は昭和三年となっていました。更に進むと分岐があります。(g02)ここまでは日光坂ルートとしました。
ひうちルート
分岐の所の坂を下ると燧坂になります。下りたあたりを右に折れそのまま進み遠の久保あたりで桐原北ルートに交差します直進して大日様のしたで、えんにゅうルートと合流します。
えんにゅうルート
分岐の所をそのまま進むと遠入坂になります。遠入坂はそのまま進むと桐原北ルートと交差し、大日様の所でひうちルート合流さらに進み、大間々ルート(G05-4)と合流します。桐原の銅蔵に向かうには途中から右折し、でんぐり薬師の所から直接桐原北ルートに合流しました。
浅原ルート・戸沢ルート
(f21)の道祖神の所からそのまま下ると万年橋(f22)がありますここを進むと山越えと巻道があります、どちらもそれほどの違いはありませんが道は荒れているので注意が必要です。発電所の水路を越えると浅原の寅久保地区です。道なりに下ると発電所が見え県道に出た所に庚申塔(f22-3)があります。発電所の所から河原におり、そこから戸沢の渡しが出ていたようで、ここまでを浅原ルートとしました。
戸沢地区は戦後間もない頃の台風で大きな被害を受け痕跡はほとんど残っていません。しかしここから上流部は渡れるような所はないことから多分間違いないと思います。ここから金毘羅様(f18)までが戸沢ルートとしました。
荒瀬ルート
(f21)の道祖神の所を右折少し行って左折して川に向かう道が荒瀬ルートです。荒瀬橋は文献も残っている所から福岡大橋から新栄橋の間にあったことは間違いない様ですが、その痕跡はほとんど残っていません。わずかに残った痕跡から神明様に向かうと桐原北ルートをすぎ、戸沢ルートに合流します。ここまでを荒瀬ルートとしました。
桐原北ルート
神明宮(g20)の所の荒瀬ルートから分かれ、遠の久保稲荷の所でひうちルート、さらにえんにゅうルートと交差し銅蔵までを桐原北ルートとしました。
大間々ルート
金毘羅様(f18)から本町通を南下、途中でえんにゅうルートを合流し赤城駅周辺の分岐までを大間々ルートとしました。
桐原ルート
銅蔵(g08)から南下さらに道標の所を進みます、踏切を渡ると信号がありますが当時は直進したようです坂を下ると、鹿田山西ルートさらに東ルートと交差し、諸町ルートに合流します。
えんにゅうルートから桐原ルートが「あかがね街道」と呼ばれています。