G 山地から平野部へ 桐原・大間々

g 桐原・大間々地区 燧坂ルート 遠入坂ルート 戸沢ルート

燧ルート f13 峠の道標 ~ g05 大日様

 (絵図道)では 下神梅村から日光坂を登ってき峠(f13)を越える辺りから桐原村に入ます、すると視 界が開けてき左に小高い山 見えます。ここが手振山(g01)で戦国の頃は 砦もあったそうです。山頂には石の祠が有り三角点もあります。場所がら眺めがよく大間々町を一望 出来ます。
峠には新しい 物ですが道標 があります(f13)ここからが燧(ひうち) 坂です。 燧は燧ケ岳 の事ではない か と思います。燧ガ岳 とは群馬、 栃木、 福島 にまたがり尾瀬国立 公園内 にある東北 で一番高 い山です。
峠を越え高原のなだらかな道を進むと変則の十字路(g02)が有ります、絵図はここを直線的に進み下りの道は無く燧坂の描きいれもありません。左折気味に直進し急な坂を下 れば 瀬戸 が原地区 に入ります、当時 はここに集落 は有りませんでしたが縄文中期 や室町時代 の複合遺跡 が あり人の往来 は古くからおこなわれてい たよう です。燧坂ルートはここを下ります。 左に大きな念仏岩があり「 南無阿弥陀仏」 の六文字 が刻まれています。 道はこの坂を下りすぐ右に曲がり桐原 の通りを遠 の久保 稲荷 の所から細い道を下り大日 様(絵図 では良源寺 g05)の下に出ます。ここを左折 して大間々 ル ート に合流 しました。
 燧坂は下り坂が急なのと銅蔵が桐原に移ったので遠入坂が出来 たあたりから使うのが少なくなりましたが、 (道の記)では高山 彦九 郎はこの道沿いにある深沢家に行き も帰り立ち寄 ったよう です。

遠入坂ルート g02 分岐 ~  g05-4 本町通の道標

戸沢ルート 渡良瀬川 ~ f18 金毘羅様

山地から平野部へ桐原・大間々

 

  日光坂から燧坂を通って来た山越えの生産物は桐原村を通り、いったん大間々村に集まりました。渡良瀬川を越えて来た生産物も同じです。

大間々村はその昔に桐原村から分村したとされるが定かではありません。しかし、渡良瀬川上流の山中入り地方と下流の桐生・足利・太田・伊勢崎を結ぶ交通の要所にあり、あががね街道が開始される頃にはすでに幕府領であったので、始めから御用銅の荷継場に指定され、寛文三年(1663)には高草木与四右衛門が蔵問屋に任命されました。しかし、延享三年(1746)前橋藩領になると桐原村が御用銅の荷継場となり、銅問屋と銅蔵が開かれ、銅問屋は藤生家が代々勤める事になりました。

大間々村は文政十一年(1828)には正式に町号を使用することが許され、大間々村から大間々町となりました。大間々村は早くから六斎市が開かれ、利根郡の繭や東上州の糸・絹の重要な集散地であると共に日用品・雑貨等も集まり、あかがね街道沿いの各村々はもとより周辺地域の経済の中心であったからです。  これは銅蔵が桐原に移っても何ら変わりはありませんでした。

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g 桐原・大間々 地区 桐原北ルート 桐原ルート 桐原南ルート

桐原北ルート g20 間坂の神明様 ~ g04 桐原の分岐

桐原ルート g04 桐原の分岐 ~ g12 桐原の道標

桐原南ルート  g12 桐原の道標 ~ g16 庚申塔

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g 桐原・大間々 大間々ルート 諸町ルート

大間々ルート g18 金毘羅様 ~ g33 庚申塔

諸町ルート 赤城駅 ~ g16 庚申塔

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