諸町・笠懸北部 g16h 地区
鹿田山西ルート
赤城駅周辺の庚申塔(g33)から踏切をこえ鹿田山の西を通り赤城神社(h04)までとしました。この街道は平塚に直接行くいわゆる古道の一部であることから寛文十年(1670)以前はここが中心と思います。
鹿田山東ルート
先ほどの西ルートからすぐ分かれ鹿の川沼に向かう道です。文献には残っていませんが地元の研究家の証言もある所から使われていたのは間違いないように思います、また桐原ルートも初期にはここを使っていた形跡もあります。またこの先諸町ルートに合流する所にある庚申塔が宝暦十一年(1761)とあるところから、寛文十年(1670)から桐原宿が開設される延享三年(1746)までは大間々から道祖神(g15)所までが使われ、諸町ルートが出来るまでは桐原ルートも鹿田山東ルートを使っていたのではないでしょうか。
諸町ルート
大間々ルートは赤城駅の所から踏切を割った所が二股になり太田方位に行く道がありますが、当初は太田方面だけで諸町ルートはなかったのではないでしょうか。あかがね街道に大原宿が出来ても街道としても別に不便は感じなかったのではないでしょうか。しかし大間々町が発展して来ると街道とは別の需要が増えてくるもので直接行く必要が生じたのはないでしょうか、ではいつ頃かというと文化三年(1809)の絵図にはありますからそれ以前である事は間違いなく(g16)の庚申塔が宝暦十一年(1761)であるところからそれ以降は桐原からも諸町ルートを利用したものと思います。
笠懸南部 h17 地区
古道北ルート
赤城神社(h04)から南下、百品神社(h05-1)の所ひたすら南下、道標(h06)も南下、途中で痕跡は消えますがインターに向かう向かう道の手前に古道の碑があります。これは新しい物ですが地元の方が道を発掘した時に造ったものでここを使ったのは間違いないように思います。
久宮ルート
鹿の川沼から陣屋を通り県道桐生伊勢崎線までとしました。この辺一帯は地下水が低いので水を手に入れるのが大変だったようです。
大原・薮塚 h18 地区
古道南ルート
古道の碑がある所から新田の道標(i02-3)までとしました。多くの部分が新しくなったので痕跡はほとんどありません。また古道を調査した方からはこの先が大原宿に向かっていたとの話もありました。
大原宿が開設されたのは景能公が就任してからわずか二年後です。当時の事は分かりませんがあまりにも短時間とは思いませんか、また大原を出た所にある道祖神(h27)からの道は不自然に曲がっています。
そのことから推測すると町はとりあえず開設するくらいまでは出来て、開設してから体裁をととのえ、それまでは古道の道を利用していたと推測することも出来ます。そうすれば無理なく移行できるのではないかと思います。
大原ルート
大原ルートは桐生伊勢崎線の交差点から嘉祢の十字路(i08)までとしました。嘉祢の手前の六千石村は景能公が新しく造った村でということです。また久宮の村も作ったとの話しもありました。当時この周辺は水を手に入れるのが難し敷く村が出来なかったそうです。そこで用水の工事を行ない街道の水の確保と同時に村つくりをしたそうです。
大間々から平塚まで約五里片道で楽ですが一日で往復となると一寸大変です。そこで中間の大原宿はどうしても必要になる場所です。
景能公はその任期が二十年くらいありましたが十年以上の歳月をついやして「笠懸野御用水」を完成させました。また新田開発を目的とされ大原本町村のはか、久々宇村、桃頭村六千石村等新田村がたくさん生まれました。新田開発に道が重要な役割があったとしてもわずか二年の間のこれらが出来るとは思えません。するとまず古道を利用して村を造りその後ゆっくると他の水路や道路村造りに行ったのではないかと思われます。
薮塚・新田北部 h19i 地区
三ツ木ルート
県道315号線は大原・境三ツ木線といわれいる道路です。このうち県道39号線(足利・伊勢崎線)と交差するあたりから三ツ木ルートとしました。
この辺りからは地下水位も上昇、湧水も豊富になります。そのため古くから開けた町が多く、新田の荘の色が濃くなってきます。
また東山道が新田町から境町まで造られたことが分かっているそうです。そこで例幣使街道と交わるあたりまでを三ツ木ルートとしました。
江田北ルート
こちらは県道39号線から南を江田北ルートとし、江田の十字路(i12)までです。
大原ルートは古くから開けた様子は少ないのですが新田に入ると町に歴史が感じられ道の両側に寺社仏閣の類が増えてきます。