あかがね街道の彫物師
妻沼歓喜院聖天堂と黒川彫刻師集団
関東の寺社の中にはきらびやかな彫刻に覆われた建物が多い。日本で多様な彫刻に飾られたのは室町の末期、豊臣政権下で近畿の寺社に広まった。その後日光の東照宮に広まったのあるが当時は一部の特権階級の建物のみに許され、他の寺社はごく部分的にのみ彩色や彫刻を用いた。しかし享保の時代(18世紀初頭)になる頃から庶民の信仰する寺社でも装飾に工夫を凝らす物が現われた。そんな中武州妻沼で「歓喜院聖天堂」の建築話が持ち上がった。聖天堂は大隅流の大工棟梁 林兵庫正清の下享保五年(1720)細工初めに始まり、享保二十年(1735)本格的に着工されました。しかし奥殿の上棟された頃台風に襲われ、2年後、奥殿は完成したが中殿、拝殿の工事が中止となった。 奥殿の彫刻は石原吟八郎を中心に上州花輪の彫刻師集団により施された。花輪の彫刻集団は左甚五郎の流れをくみ島村流の流れをくんだ公儀彫物師高松又八が手塩に掛けた石原吟八郎が中心となって一団の集団を形成していた。林兵庫と吟八郎のグループは聖天堂の工事が延期となった時、花輪の山を越えた所に所にある現みどり市の小平地区を皮切りに桐生そして熊谷と作品を残している。庶民寺社建築装飾化の幕開けと言える頃である。
花輪の彫刻集団からはやがて関口文治郎を中心とした上田沢彫物師集団が独立し、双方を合わせて黒川彫刻師集団と呼ばれた。「黒川」とは花輪から黒保根地区を流れる「渡良瀬川のことで、戦国期の武士集団は黒川衆と呼ばれていた。
彫 刻 師 来 歴
初代高松又八邦教 初代石原吟八郎義武 二代石原吟八郎明義 初代石原常八雅詖 前原藤次郎・松島文蔵
二代石原常八主信 関口文治郎 飯田仙之助 三代石原常八利信・改之介・歓治郎・幸作 星野政八・慶助・政一
注意・・・色が変化している所をクリックしてください。他に調査希望彫刻師がいる場合は連絡ください。
妻沼聖天堂と関口文治郎
妻沼の聖天堂の彫物師についてはある著名な研究者によって「師匠の石原吟八郎が病になった後師匠に代わって関口文治郎が仕上げた」との書がありますが。これには思い込みが多く、正確ではないとの結結論に至りました。
文治郎の活躍は「上州の甚五郎 関口文治郎」を読んでもらえばわかりますのでここでは聖天堂との関係を示しておきます。
① 文治郎の生まれた地を上田沢村の沢入とし、あかがね街道の沢入と勘違いして書いてあるが上田沢の 沢入(サワイリ)はあかがね街道の沢入(ソウリ)宿とは全く関係がなく、沢入(サワイリ)は交通の要所どころか陸の孤島の状態です、したがって花輪に行くには山を越え小中に出るか、旧五覧田城の北側から山を越え荻原村に出るかしかなく、どちらを通っても山越えで途中の村を通らねばならず、大人が日帰りするだけでも丸一日を要するような場所です。(後日の調査で田島峠の位置が判明し、「上州の・・・。」の所に詳しく載せました。)
② 文治郎の処女作は 10 歳から 13 歳の頃参加した聖天宮とありますが、聖天宮の上棟は彼が 10 歳の時
で、当然彫刻はその以前にすべて作ってありました。同じ文章で「十代半ばに一人前となった」と書いてありますがそのころにはすでに奥の殿自体が完成していて彫るものがありませんでした。残っている拝殿や中殿にしても上棟待ちの状態であることから彫るべき彫刻が残っているはずありません。
現にこの時は大工も彫り物師も他の現場に行っていたことが資料としても残っています。 考えられるのは工房で行う仕事の手伝いくらいで、聖天堂とは関係ありません。