あかがね街道

           総延長約14里(54km)高低差600m 継立5宿 これがあかがね街道です。

銅山街道とか銅街道と書きますが、ここでは足尾から前島河岸まで、当初の古道から最終的な街道そして脇道や迂回路等関係のある道、あかがね街道の全貌を 地図と写真とでご案内します。

地図編


 最初のページに凡例がありますから参考にしてください。

 尚、調査は完全ではありませんので細部で違いがある所があります。また分かりにくい痕跡や踏み跡等がない場合もあります。充分ご注意願います。

 不明な所に行く場合は当方に連絡ください。

凡例 ~ 足尾 a03

足尾 a04 ~ 沢入 b07

草木 b08c ~ 花輪 c11d

黒保根 d12e ~ 桐原 f15g

笠懸 g16h ~ 新田 h19i

新田 i20 ~ 前島 i23

写真編


観光案内編




あかがね街道の彫刻師

あかがね街道には他に類を見ないほどの素晴らしい彫刻家集団がいました。

詳しくは写真をクリック

「桐生天満宮と上州の彫物大工」

天満宮には優れた寺社彫刻の末社機神神社も祀られています。

関口文治郎と星野政八の協演が目られます。

お問い合わせはこちらからお願いします。


   桐生天満宮と上州の彫物大工(アマゾン・楽天 発売予定 ¥1,650.-税込み

 令和5年、「神社建築の装飾化が最も発達した段階で精緻な彫刻と彩色で埋め尽くされた建築彫刻の発達と工匠の高い技術を示している。江戸時代後期の北関東を代表する神社建築の一つである」とのことで国の重要文化財財に指定されました。本書は誰にでも分かるように詳しく建物を説明すると共に、彫刻の魅力や秘密を、今回(附)として指定された、機神神社本殿と併せて紹介してあります。

 本殿の胴羽目の二十四孝の「孟子」にはなんとユルキャラの様な妖怪?が彫られている。他にも「楊香」の後ろは父なのか母なのか。「あっかんべーをした獅子舞」は何なのか。「三匹のニャンコ」とは、「階(きざはし)を登る麒麟、」「妻飾りの獅子の親子」。彫物大工(彫工)文治郎作品の魅力を初期の医光寺の欄間彫刻(二十四孝)晩期の栗生神社の唐子(朝鮮通信使)と共に紹介。
 彫工として名の知れた関口文治郎(国重文 伊那の熱田神社の彫工)は、「妻沼の聖天堂の彫刻を師匠に代わって仕上げた。」として伝わっています。特に旧黒保根村の関係者や文治郎シンパの中ではそれを中心に寺社彫刻を調べている。
 本書ではそれを実例を挙げてあえて否定した。そのうえで新しい真実の文治郎像を描くと共に師匠である、名人 石原吟八郎の作品(吟八唐子)を通してその素晴らしさを紹介。
 機神神社本殿では、彫工 星野政八、政方の名。師匠 石原吟八郎をしのぐ唐子達、ここにも朝鮮通信使の唐子達がいる。なんの所縁も関係もない山の中の神社になぜ彫ったのか。原画はあったのか、自分で描いたのか、誰かの指示だったのか。分かったことは何一つありません。しかし彫ってあるのでです。見てください当時、日本にはなかったチャルメラを吹いています。帽子、旗、傘、すべてが朝鮮通信使を指しているのです。栗生神社は寛政2年(1790)、機神神社は寛政4年(1792)朝鮮通信使が来たのはその二十数年前、唐子達のなぞは深まるばかりです。
 本殿・幣殿は彫刻で飾られているのに、拝殿はなぜ質素なのか。原画より規模が大きくなっているのはなぜか・・・。桜島の噴火、さらに浅間の大噴火、それらと桐生の歴史の中で揺れ動いた天満宮の建設。
 日光東照宮の寛永の大増替(1636年)に始まる寺社建築の装飾化。その中で生まれた彫物大工(彫工)の活躍。寺社彫刻歴史の中で、中心的役割を果たした石原吟八郎とその弟子の関口文治郎、星野政八、その最高傑作の一つの「桐生天満宮と機神神社」を、建物の工匠として「関口文治郎やその盟友星野政八」の関係を「二十四孝や唐子遊び」の彫刻から紐を解いてみました。

更新履歴


2024  07.13  桐生天満宮国(指定重要文化財)を記念して「桐生天満宮と上州の彫物大工」の新書を作りました近日発売予定です

2020.10.06 あかがね街道の彫刻師うち弥勒寺音八高瀬三代の足跡を載せました。

2020.06.20 関口文治郎の足跡と田島峠の地図を載せました。

2020.06.08 あかがね街道の彫刻師 来歴を追加しました。

2020.04.17  関口文治郎の師匠は石原吟八郎ではない・・・では誰か・・・載せました。

2020.01.09 あかがね街道の彫刻師に妻沼の聖天堂との関係を載せました。

2019.10.05  「龍淵に潜み子育て真っ最中!」 光栄寺の「子育て龍」私のブログに載せました・・・

2019.08.16 地図編に「大間々の各街道」を載せました。

2019.08.16  観光案内編に「大間々と光栄寺の秘密」を載せました

2019.03.17  「桐原のあかがね街道と来迎桜」の話しを載せました

2019.02.17 「平塚新道の話し」を載せました。

2019.02.06 大間々北地区の観光案内を整理しました。

2019.01.31 東地区黒保根地区の観光案内を整理しました。

2019.01.27 足尾の観光案内を整理しました

2019.01.26 「平塚古道ルートの話し」を載せました。

2019.01.22 「鹿田山西ルートの話し」を載せました。

2019.01.08 「燧ルートの話しを」を載せました。

2019.01.01 桐生タイムスの特集にとりあげられました。これからも宜しくお願いします。


あかがね街道とは

今から1200年位前、世は奈良から平安に変わろうとしている頃です。

  大変偉いお坊さんが苦労の末やっと日光を開きました、そして中禅寺湖畔の歌が浜にいると南の山の方から毎年の様に白いねずみが粟の穂をくわえてきました。そこで足にひも(緒)を付けて後を追いました。するとねずみは山を越え谷を下りある村に入り川の畔の洞穴に入ったといいます。

  この辺りの谷は深くて流れが急でしたが、浅瀬を見つけ無事にわたることができました。そこで川は渡良瀬川と命名されました。

 偉いお坊さんは勝道上人といいます。この洞穴に波之利大黒(はしりだいこく)を奉納して、この地を足緒と名付けました。足緒はやがて足尾となりました。

 その頃から、約800年、この地から銅が発見されました。長い戦乱が漸く落ち着き徳川の御世となった頃です。足尾の銅は三代将軍になる家光の袴着が行われる年、間吹銅という精錬された形で幕府に献上されました。この事は徳川家の繁栄と御世が長く久しく続くことを象徴するものと大変喜ばれ、足尾銅山は幕府の直轄となりました。

  足尾の銅は渡良瀬川沿いを南下、さらに関東平野を南下して、世良田東照宮のある付近の川岸より利根川の水運で江戸・浅草に運ばれました。あかがね街道の誕生です。

 こんなあかがね街道を調査しました。しかしまだまだ十分とはいえず調査漏れや間違っている所もあると思います。とりあえず一段落しましたので、発表しますが今後も訂正修正加筆等致したいと思っています。ぜひご意見をお聞かせ下さい。

 なお、前頁まとめたものあるいは地図の複写等ご希望の方はご連絡下さい。同様に本会に参加ご希望の方も募集してます。入会金や会費の類は有りません、自然と郷土をこよなく愛し、あかがね街道の歴史に興味ある方ならどなたでも歓迎します。

     尚、本HPの文章、写真地図等、無断複製はご遠慮願います。

               あかがね街道しらべ隊  代表 下 山  彰